境界のメロディ試し読み

※本ページ内の文章は制作中のものです。実際の商品と一部異なる場合があります。

●プロローグ

 空と海が鏡合わせになったような、幻想に満ちた世界。
 空と海の澄んだ青が互いに混ざり合って、どこまでも続いている。
 水面に映った輝く太陽はとても鮮明で、海の中に実物が沈んでいるのではないかと思うほどだ。
 そんな世界の中心には、ぽつんと水面に浮かぶようにバス停が存在していた。
 すぐ横に置かれたベンチには、金髪の青年が腰かけている。彼のアコースティックギターによる弾き語りが、澄んだ世界を駆け抜けていく。
 歌詞はなく、綺麗な鼻歌。ギターの正確なアルペジオ。周囲に響くその音色は少し切なく、そして曲として未完成だった。
 一台のバスがどこからかやってきて、静かにバス停で止まる。
 金髪の青年はギターを弾く手を止め、バスを一瞥してからつぶやく。
「忘れ物……」
 その声は、幻想の青に溶けて消えた。


●第一章 キョウスケとカイ

 嫌になるほどの快晴だった。じりじりと焼かれるような強い日差しの下、天野カイの法要が行われていた。熱気がこもった大きな寺の中では、けたたましい蟬の声に負けじと、読経が響き渡っている。
 祭壇の中央に飾られているのは、遺影とは思えないほど満面の笑みを浮かべたカイの写真。その前で、十数名の人達が神妙な面持ちでうつむいていた。
 しかし――弦巻キョウスケだけは顔を上げ、じっとカイの遺影を見つめている。
「……なぁ、カイ。もしお前が生きていたら俺たち、何してるのかなぁ」
 キョウスケの力ない呟きは、読経にかき消され、他の参列者の耳に届くことはない。そのうちに読経が終わり、和尚の法話の後に親族達は会食に案内されていく。それを尻目に、キョウスケが無言で寺を出ようとしたその時だ。
「キョウスケ君、少しいいか?」
 静かで低く品のある声に呼び止められた。キョウスケが振り返ると、そこには喪服をハイブランドのブラックスーツと見紛うような、渋い大人の色気がある男性がいた。
 カイの父親、天野ジンだ。
「お久しぶりです」
 軽く頭を下げたキョウスケには、この後ジンが口にする言葉の察しがついていた。
「……キョウスケ君、もう音楽はやっていないのか?」それは一年前と全く同じ問いかけ。
 そしてキョウスケもまた、一年前と全く同じ返答をした。
「はい、もう辞めました。すみません」
「……そうか」
 ジンは少し寂しそうな表情を浮かべる。キョウスケは気づかない振りをして一礼すると、その場を足早に立ち去った。

   ◇

 キョウスケは、カイの命日には決まって、「リンリン」という中華料理店に行く。建物は古く、各所に劣化が見られるものの店内は常に清潔に保たれている。そのため、常連客はそれなりに多い。
 店先には170センチはあろうかという巨大なパンダの置物が鎮座していた。アニメタッチの表情でなぜかウィンクをしているそれを、店主は中国で開催された中華料理大会で入賞して手に入れたと主張しているが、本当は参加賞なのではないかと常連達は疑っている。
 キョウスケが入り口の暖簾をくぐり店内に入ると、レジで作業しているミディアムの綺麗な茶髪の女性が振り返った。
「いらっしゃい!」
 明るく元気な声が店の中に響く。リンリンの看板娘、ユイだ。
「あっ……」
 一年前のカイの命日と変わらず、暗い顔つきをしているキョウスケを見て、ユイの笑顔が一瞬だけ陰ったが、すぐに普段のテンションを取り戻して彼に話しかける。
「一年ぶりだね、キョウちゃん。元気だった?  ほら、席座って!」
 ユイに案内されたキョウスケは、昔から決まっている定位置の席に着く。
「ありがとう」
 ランチタイム終了間際でキョウスケ以外に客はおらず、店は貸し切り状態だった。
「注文は?」
「かに玉で」
 ユイは厨房にいる店主の父親に注文を通す。
「お父さん!  かに玉一つ~!  サービスしてあげてね!」
 その言葉を聞いたキョウスケは慌てた様子でユイに言う。
「具なしのかに玉ね!  あと、サービスはしなくて大丈夫だから!  ……わかってるだろ?」
 ユイは表情を少しだけ曇らせたものの、再び笑みを浮かべ、厨房に向かって注文を訂正する。
 かに玉を待つ間、久しぶりに訪れた店内を眺めていたキョウスケは、あるものを発見した。
「……まだ置いてあるんだ」
 レジ横に置かれた、何も印刷されていない真っ白なCDと、キョウスケとカイが弾けるような笑顔で写っている写真。
 時間が切り取られたその中でカイはニッと笑っていて、キョウスケの瞳には思わず涙がにじむ。悲しさや悔しさ、マイナスな感情が胸の中で渦巻いて、呼吸が徐々に浅くなる。
「キョウちゃんお待たせ!  具なしかに玉だよ!」
 明るいユイの声で、キョウスケは現実に引き戻された。
 目の前のテーブルに運ばれてきたかに玉は、美味しそうな湯気をたてていた。しかし、それは店の正式メニューである豪華なものではない。
 申し訳程度にカニカマが少し載っているだけの、具なしかに玉だった。
「いただきます」
 キョウスケは手を合わせ、具なしかに玉をそっと切り崩して口に運ぶ。
 久しぶりに食べる味。質素ながらも優しいその味は昔と変わっておらず、キョウスケはわずかに微笑んだ。
「具なしかに玉、懐かしいね」
 いつの間にかキョウスケの向かいの席に座っていたユイが言う。
「……」
 キョウスケは、無言で具なしかに玉を食べ続けながら、カイと過ごしたお金のない学生時代を思い出していた。
「今日、だよね」
 ユイがぽつりとこぼす。キョウスケは小さく頷いた。
「……うん。カイの命日はこれを食べなくちゃいけない気がするんだ。今年も出してくれて、ありがとう」
 ユイは具なしかに玉を嚙みしめるように食べるキョウスケのことをじっと見つめる。
 昔、キョウスケとカイはいつもこの席で、具なしかに玉を食べていた。二人は、三年前まで『かにたま』という音楽デュオを組んでいた。
 キョウスケはピアノ、カイはギターを担当し、メジャーデビューの話がくるほどの実力だったのだ。だが――。
「キョウちゃんピアノは?  最近弾いてる?」
 キョウスケは具なしかに玉を食べる手を止め、水を一口飲んでから答える。
「それ、ジンさんにも毎年訊かれるよ。でも……ピアノは辞めたんだ」
 少し苦い声色だった。そしてもう話は終わりとばかりに、キョウスケは食事を再開する。
「でも、あれから三年だよ。キョウちゃんも、その、そろそろ気持ちを切り替えないと……」
 ユイは壊れやすいものに触れるように、おそるおそるそう告げたが、キョウスケは返事をしなかった。
「キョウちゃんのピアノ、また聴きたいな。私だってカイのことを忘れたわけじゃない。だけどカイの分まで楽しく生きなくちゃ!  ね?」
「……ユイは強いな」
 キョウスケは静かにスプーンを置く。
 具なしかに玉はすでに綺麗に完食されていた。
 居心地悪そうに視線を下げたキョウスケは「ごちそうさま」とだけ言い、テーブルにお金を置いて店から出ていく。
「私、ぜんぜん強くないよ……」
 その後ろ姿を見つめながら、ユイは悲しそうに唇を嚙んだ。