メディアワークス文庫『恋に至る病』
本編15秒後の物語
斜線堂有紀

 振り返った入見さんは、それからたっぷり十五秒ほど僕のことをじっと見つめていた。まるで、僕の瞳の中に何かしらの答えが書かれているかのようだ。そんなものはどこにも無いのに。その内に、入見さんは僕の中に答えを探すことを諦め、深い溜息を吐いた。

 僕らの間にあったものを探ろうとすることが、どれだけ不毛なことなのかに思い至ったのだろう。それでいい。<br/>  僕と景のことは、誰も理解出来なくて構わないのだ。<br/> 「……これからは宮嶺くんも──……だから、このまま──…………寄河景のご両親に──……」<br/>  席を立った入見さんは、近くの職員と何かを話している。これからの僕の処遇を話しているのだろうか。僕は依然として何の申し開きをするつもりもないが、入見さんはそれを赦してくれなさそうだった。そのことを疎ましく思う段階も過ぎてしまった。<br/>  入見さんはきっと良い刑事なのだろう。『青い蝶』を破壊してしまっただけのことはある。彼女のたおやかな指の間から、美しい羽の粉が脆く溢れていくところを想像する。<br/>  その時ふと、景の死骸のことを思った。<br/>  景は今どうなっているんだろうか。寄河景の葬式は行われるのだろうか。現在のところ、彼女の立場は僕に操られていた被害者だ。彼女の魂はちゃんと然るべき手続きを踏んで弔われるのだろうか。<br/>  地獄行きが決まっているような彼女の葬式なんて、まるで悪趣味な冗談のように見える。それとも、きちんと弔われた景は、全ての罪を帳消しにされて、天国へ向かうことが赦されるんだろうか?<br/> 「何笑ってるんだ」<br/>  傍らに立っていた職員が、鋭い声で叱責する。知らず知らずのうちに、笑い声を上げてしまっていたらしい。<br/> 「すいません、特に理由はないんですけど……」<br/> 「お前は理由も無く笑うのか?」<br/>  嘘を吐くな、とでも言いたげな口調で職員が言う。ちゃんと理由を説明したところで理解してもらえるとは思わなかった。寄河景の葬式を想像していました、と言ったら気味悪がられるだけだろう。でも、今の僕にとってそれ以上に面白いものはなかった。<br/> 「思い出し笑いみたいなものです。特に意味はないので気にしないでください」<br/>  焼かれて骨になった景が想像出来なくて、死んだ彼女が永遠に留め置かれるところが浮かんだ。まるで蝶の標本のように。<br/>  その時、職員がぬっとこちらに手を突き出してきた。手を伸ばした方向には、ビニールに入った消しゴムがある。きっと、今になって消しゴムの存在を思い出したのだろう。これはただの消しゴムで、何の証拠になりそうもない。裁判でも出番の無いこれは、あっさりと捨てられてしまってもおかしくなかった。<br/>  そう思った瞬間、身体が動いた。消しゴムを払うように動いて、椅子ごと床に倒れ込む。<br/>  派手な音がしたので、入見さんも驚いたようだった。戸惑ったような声が聞こえる。端から見れば、僕が職員の人に殴られたように見えたのかもしれない。僕は起き上がらず、床に転がった消しゴムの入った袋に手を伸ばした。<br/>  こうしていられるのも十五秒くらいが限度だろう。ビニール袋を開ける動作がやけに覚束なくて、焦りが滲んだ。爪の先がビニール袋を引っ掻く。<br/> 「大丈夫? 宮嶺くん? どうした?」<br/> 「大丈夫です。少しふらついてしまって……」<br/>  心配そうな声。入見さんのパンプスがこちらに近づいてくる。そこでようやくビニール袋の口が開いた。ひっくり返して中身を取り出す。<br/>  景が死に際まで持っていた消しゴムは薄汚れていて、濁った白に変色していた。黒い汚れが滲んで辺りを汚染している。その柄が今は蝶にも見える。半分しか使われていない消しゴムは、手に乗せると結構な大きさがあった。<br/>  ひっくり返して比較的白い面を表に出す。その半端な白さは骨に似ていた。<br/>  景の遺骨だ。<br/> 「宮嶺くん? 出てきなさい。宮嶺くん」<br/>  入見さんが訝しげに言い、机の下を覗き込む。<br/>  僕が手の上の消しゴムを口に入れるのと、彼女と目が合うのは同時だった。飲み込めない大きさのものを無理矢理飲み下した痛みで涙が滲む。思い切り喉を殴られた時のような感覚だ。あるいは、首を思い切り絞められたら、こんな痛みを覚えるだろうか?<br/>  ちゃんと飲み込めるだろうか。それとも吐いてしまうだろうか? 困惑した表情の入見さんがこちらに手を伸ばす。<br/>  その時、僕の耳元に悪戯っぽい笑い声が届いた。<br/>  この部屋に景はいない。だから、この声はきっと幻聴なのだろう。彼女の軽やかな笑い声で入見さんの声が聞こえなくなる。<br/>  後に残ったのは、ただ深い幸福だけだった。<br/><br/>



『恋に至る病』
著者:斜線堂有紀 
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