『そして、遺骸が嘶く』試し読み

序章

「『貴方の狙撃可能な位置に、敵兵が二人だけいます。一人は大人の男性で、もう一人は子供です。二人は親子です。兵士である貴方は、その後どう行動しますか?』」

 休日の人の多い公園のベンチの上、若い夫婦が赤ん坊と一緒に秋風に吹かれていた。妻は仕立ての良いワンピースを纏い、夫は軍服を着用していた。この国の兵士だろう。内、夫の方が突然そんな物騒な質問を口にしたのだ。
 しかし妻は驚く素振りはせず、不思議そうに瞬きすると「なんですか、それ?」と返した。
「昔、入営試験で試験官にそう問われたんだ。心理試験の一つだったんだと思う」
「ふうん……。なんて答えたんですか?」
「『仲間を呼びます』と」
 妻は首を捻る。「どうして?」
「出来れば、狙撃の上手い奴がいいと思った。それで、オレは親を撃って、仲間は子供を撃つんだ」
「貴方一人ではいけないの?」
「オレがいつも使っているのはボルトアクション式の銃で、二発目にどうしても時間がかかる。子を先に撃ち殺せば、その死を目にした親は悲しむ。親を先に撃ち殺せば、その死を目にした子は苦しむ。だから同時に撃ち殺さなければいけないと考えた」
 妙ではあるが理屈の通った言い分に、妻は「なるほど」と神妙そうな顔で頷く。
「……殺さない選択は?」
「ない。オレは既に自分が生き残るために何人も殺している。その親子が軍服を著て武装しているのなら、それが殺す理由だ。けれど、たとえ親の方が子を背に隠す様を見せられても、それは殺さない理由にはならない」
 オレは、狙撃手だから、夫は最後にそう呟いて蜂蜜色の目を伏せた。
「……それって、結果的にどういう分析がされたんですか?」
「さあ……そういうのがわかってしまうと素直に答えない奴が出てしまうから、教えられなかった。けれど、多分二択で選ぶと、撃つ順番によって子供的な立場なのか大人的な立場なのか、どういう状況なのかを考えたかによって性格の傾向を割り出すんだろう。オレは、子供でも大人でもなかった。ただ『撃つ側の人間』だった。子供の気持ちも大人の役割もわからない」
 夫がそこまで言うと――妻は「ああ!」と声を上げ目を丸くして、それから長い溜め息を吐いた。
 それから腕の内にいる息子の背を叩くのを止めて、自らの夫に向き直る。
「だから急にそんな話を――、あのね。息子のことを上手に抱っこ出来なかったからってそんな落ち込まないでください」
 さくり。夫の胸に何か棘が刺さる。先程腕から落としかけた息子は、妻に抱えられながらなにが面白いのかきゃあきゃら笑い、こちらに腕を伸ばしてくる。夫がふっくらとした小さな手の平に人差し指を差し込むと、きゅっと握られた。可愛い。可愛いと思うが、こんな子に報える親かと自分の胸の内に問えば、否と返ってくる。
「向いてないのだろうか」
「抱っこが?」
「……父親(大人)が」
「安心してください、私もおおよそ母親に向いてるとは思っていませんでしたが、想像よりも天職だったようですから」
 情けない男の弱音を、女はさらりと受け取る。
「さ、ほら、もう一度。行く前に一度くらいちゃんと抱いてやってくださいな」
 妻がそう言って夫に身を寄せ、息子をその腕の中に移そうとする。「今度は座ってるから落ちてもまあ大丈夫ですよ」妻のいい加減そうな言葉に眉を微かに下げながら、夫は恐々と腕を伸ばした。体温の高い子供のその熱が、指の腹と腕の内側から夫――兵士の、腕(かいな)に染み込んでいく。
「ね、大丈夫だったでしょう?」
 こちらを見上げる赤ん坊は、まるで友人に向けるような無垢な顔で笑っていた。
「父さんに抱っこされた方がご機嫌みたい」
「……そうか」
「抱っこして良かったでしょ」
「うん。貴方が言うことは、いつも間違いないな」
 さらさらと、風が流れる。それに乗って土と草の匂いが舞って、通り過ぎていく。
「……ねえ、『キャスケット』」
 妻が、夫から視線を外し、その名を呼ぶ。
「訊いてもいいかしら」
「なんだ?」

「やっぱり、私に貴方の本当の名前は教えてくれないの?」



 不意に――涙が出そうになる記憶が過ぎる。

 それは例えば、遠い故郷の黒い山が連なる寂し気な風景だとか、初めて撃ち取った鳥が死んでいく姿とか、入営した日に自分で付けた名前を呼ばれた瞬間とか、人懐っこい同期が歯を見せて笑った顔とか、射撃の腕を褒められた日の自分の黒々とした影の形とか、上官に貰った煙草の味とか、焼き立てのパンの香ばしいかおりとか、そういった、些細で、痛切な、やさしくて脆い記憶だ。
 その中でも一等鮮明に残るのは、五年前の秋。隣国との戦争が開始されて最初で最後の休日に、生まれたばかりの息子を初めて胸に抱いた日のことだった。

 記憶が過ぎる瞬間は二通り。一つは、自分自身が死に最も近付いた瞬間。

 二つ目は、人を殺した瞬間だ。

 その記憶を伝える人間がいるとすれば、彼は、なんと呼ばれるのだろうか。