『そして、遺骸が嘶く』試し読み

二章 ノル・リセーニュ――晴天心中

 何故僕の好い人がたったそれっぽっちの値段で夜を買われなければいけないのだと泣くので、ならばと答えた。
 ――よいでしょう。貴方がそう言うなら、私は一晩で貴方のお給料半年分の女になってみせます。

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 さあさ、おあんなさいおあんなさい。
 嗅ぐもよし、触るもよし、顔を埋(うず)めるのはもちろん味見も歓迎だよ。
 小綺麗な部屋の真ん中に蕾のように座るのは、父や兄弟を戦争に取られ、愛した男にすらさよならをうたわれた、若き未亡人。この蕾の香りを、あなたが嗅いでやってください。この蕾の葉に、あなたが触れてやってください。この蕾の花粉に、あなたが顔を埋めてやってください。そうすればほら。蕾は落ちることなく咲き続け、なんてきれいな花でしょう。なんていとしい花でしょう。
 けれども彼女を呼ぶときは、花なんていずれ枯れるものの名で呼びなさんな。呼ぶとすれば、常世にすら届くこの街と一緒の名前で。九つの命を持つ愛らしい獣と一緒の名前で――。

 夜の町で、客引きの男が滑らかな口上を述べていた。
 ペリドット国北部の夏は、陽射しは強くともからっとした空気と涼やかな風があり快適だ。夜を迎えれば清風は人々を爽やかに撫で、北部特殊商業都市『金猫』では、今日も賭場や娼館や値段設定の高い海外料理店など所謂『大人向け』の店がずらりと建ち並び、空の色が黒く塗り潰され星が飾られた後でも煌々とした人工的な光を発していた。
 その中でも今夜特に盛り上がりを見せていたのは、『フクタロ』という店名のある鉄火場だった。
 北部特有の、熱を建物内に溜め込む構造に加え相当儲かっているのか何度も増築を重ねたことによりやや凸凹した形の建築物。外から見れば二階か三階建てほどの高さなのに実際は五階建てであるのは、潜むように低く設計された天井によるものだ。窓は入り口付近にしかなく、中は橙色の電球と蝋燭による光が点在し、いかにも大きな金が密かに動いているような雰囲気があった。
 その店の一室で今、十五名ほどの男が、ある二人の男の賭け勝負を固唾を飲んで見守っている。
 長方形のテーブルを挟んで向かい合って座る二人の手元には絵柄のついた数枚のカードがあり、最近流行りの海外賭博『トゥエンティワン』に興じていることがわかる。そのルールは至って簡単、胴元と参加者で一から十までの点数に設定された四種各十三枚の計五十二枚を一枚ずつ引き、合計点数が名前の通り二十一という数字に出来るだけ近くするのだ。最終的に二十一に最も近い方の勝ちだが、その数字を超えたらそこで負け。誰にでも出来るがやや頭を使う必要があり、簡潔で楽しく、そして短い時間の中で忙しなく金が行き来するゲームだ。
 さてしかし――確かに流行っているとはいえ、何故こんなにもこの勝負が注目を集めているのか。
 それは、胴元である中年男が現在、薄手のシャツ一枚というところを見れば、常連の客は大体の察しがつく。この男、口と女の扱いは上手いが酒癖が悪く、よくこの賭場でも酔っ払って大金を落とすことで有名だった。しかし酒漬けの脳でも越えてはいけない線は覚えているのか、普段ならば全財産を失くす以上のことはしなかった。そう、普段ならば。
 今回は違った。彼の計画としては、向かい合うこの若く初々しい参加者に手取り足取り親切に教えるふりをして搾り取ってやろうと思ったのに、はっと気付けばあれよあれよと乗せられいつの間にかシャツと下着一枚。彼と青年の様子を遠巻きに見ていた者も「あのいつもギリギリ臓器売らんで済んでるおっさんがいよいよダメそうだぞ」と好奇心に惹かれ集まって、もう下りるとは言えなくなっていた。
 そう、そもそももっと早い段階で彼は気付くべきだった。最近流行りのカードゲームなのに、青年はヒットをする際に机を叩いてそのことを示した。あまりにも自然な動作で中年男は今さらになって思い至ったが、そんな小慣れた動作、初々しい新参者がするわけなかったのに――。

「スタンド」

 青年の口から、森の奥の湖のような静謐さを滲ませる言葉が落ちる。これ以上はカードを引かない、というのだ。
 青年の手元のカードは五枚。相当引いている。かなり二十一に近いと見ていいだろう。対して中年男の合計点数は十八だった。良いところではあるが、蝋燭の作る影によって印象の変わる青年の表情が余裕ですといった風で、下半身から不安が這い上がる。
 シャツ一枚に下着一枚。
 金はもうない。ないから、この青年をカモにしようと思ったのだ。
 心臓から押し出される血液が悪魔のように囁く。もう一枚引け。一から三の数字は今まで出てない。きっと手元に来る。危険な賭けをしたい。安全牌なんていうつまんないことするな。
 
 天使と争うまでもなかった。
 
 中年男は自分のある種の神経伝達物質が分泌され続けたことによる興奮に従い、カードを引くことを選択した。
 引かれた数字は――――四。
 じゅうはちたすよん。にじゅうに。
「――ブタだ!」
 勝負が決まった途端、野次馬がそう言った。
 対して青年は手札を開示した。二十。カードの位置的に、最後に引く前の最大値は十七だったらしい。同じくらい冒険してこの結果ならば、正しく青年の運が良かったのだろう。
「すげぇ! 兄ちゃんやったなぁ!」
「いやー結構な金額だなこれ」
「つーかおっさん、あんた店側の借金も返すとか話してなかった?」
「いくらこれ? えー……うわっ俺の給料の三ヶ月分はあるぜ」
 これまで盛りに盛って賭けた金額がバーンッと目玉に叩きつけられるような感触がした。およそ今払えるものではない。何度も言うがこの男酒癖が悪く、今まで臓器をぶん捕られなかった方が不思議なのだ。
「……あんたに任せると盛り上がるから胴元をやらせてたが……ついにお別れか、ぐすっ」
 店員がわざとらしく目元に指を当てて言う。と、その指先が退いた途端、真冬の夜空のようにひんやりとした視線が降り注いだ。
「――で? 払えもしねぇのに賭けた金はどうすんで?」
「いっ、やぁ、払いますよ!」
「いつ?」
「…………来月とか?」
「舐めてんのか! せめて明日揃えますくらい言え!」
 今までのらりくらりと返済を延期させたり危ういところで勝ったりした中年男だったが、過去はどうあれ現在立派な敗者である。いい歳をして泣いて縋ろうとする姿に、店員が虫を見下ろすように顔を歪めた。
「だいたいあんたねぇ、お得意さんだから譲歩したけど店から借りた金も返してないだろ! この際それも回収するからな!」
「ええ!? そりゃないよ!」
「やかまし!」
 客と店員のわちゃわちゃとしたやり取りに周囲の野次馬が「そうだそうだ言ってやれ!」「賭博にも秩序はあるぞー!」と囃し立てる。青年は、それを苦笑に近い表情を浮かべて見守っている。
「さあ、どうやって返してもらおうか。お前の勤め先に行ってやろうか? ん?」
「勘弁してくれよ、首んなっちまう!」
「じゃあ家か」
「わー! 女房にまた逃げられるよ!」
「ふん、じゃあやっぱ身体を売ってもらうしかねぇな。つっても煙草も酒もやる下っ腹ぽっこりおっさんの臓器じゃ高くは売れねぇ。そうさなぁ、まあ落とし前って意味でも、右腕なんか――」
 と、店員が揚々と続けようとしたとき。
 それを制するように、青年が片腕を緩く掲げた。
「ん? なんだ兄ちゃん、なんか良い案があるのか」
 野次馬の一人がからかい交じりに訊くと、低い琴の音のような声色が「ああ」と答えた。
「まあ、右腕は勘弁してやろう、な? それを取られちゃマスがかけなくなるだろうからよ」
 ぱちり。
 店員と周囲の野次馬は一瞬呆けて――次の瞬間、弾けるように笑い出した。
 姿勢良くぴんと伸びた背筋に静かな所作、野性的であるが手入れがされ品を感じさせる顔立ちをした青年が、思いの外自分たちに近い性質の下品な冗談を口にしたことが面白かったのだ。
「その代わり」
 未だ笑い声が絶えない中で、青年は声を潜ませるように中年男に顔を近付ける。
「あんた、一級娼館の副支配人なんだって? オレに一等人気の女を抱かせてくれよ」
「いっ……!? そ、それは……」
「したら今回、オレの分の金は要らんよ。全部店への返済に充てたらいい」
「う、うぐ……」
 中年男は唸りながら辺りを見回した。十五人以上の男たちはまだ腹を抱えているが、その瞳は一時も自分から逸らされていない。逃がす気はないのだ。
「……なんとかする」
 そう答えると、青年は「そうこなくちゃな、兄さん」と片眉を上げ――
 テーブルの脇に置いていたキャスケット帽を被り、小銃と古びた青色の鞄を肩に負った。