
*
夕食が終わると、俺は中村さんを銭湯に誘った。深山荘は風呂が共用だから、女性の入居者は銭湯を使うことが多いのだ。そう言うと、中村さんは「ありがたきお誘いです」と手を合わせて、部屋着に着替えてついてきた。ちなみに児玉さんは湯船にゆっくり浸かるのが好きではないようで、いつもシャワーで済ませている。
細い路地を抜け、旧街道に出ると風呂の匂いがした。
このあたりは築年数の古いアパートが多く、風呂がついていない格安物件もある。そのため、この旧街道には銭湯がいくつかあり、俺は人が少なそうな店を選んで利用していた。中でも、昭和三十年代の雰囲気が漂う本荘湯という銭湯が気に入っている。学生は二百円で入ることができ、中に入ると、まず使い込まれた飴色のげた箱が目に入る。番台の上には裸電球がぶら下がっていて、振り子時計の秒針の音が響いていた。
「なんて良い雰囲気」
年頃の女の子にこの古めかしい銭湯はどうだろうかと少し不安だったが、目をきらきらさせる彼女に、俺は胸をなで下ろす。
「素敵なお風呂屋さんをご存知ですね」
「気に入ってもらえて良かった。集合時間どうする?」
「三十分いただけるとありがたいです。あ、でも先輩、先に上がったら帰ってしまっても大丈夫ですよ。場所は覚えましたので」
俺の問いかけに、中村さんは自然な口調で応えた。俺は首を振る。
「夜道を女の子ひとりで歩かせられませんよ。遅くなっても待ってるから、安心して入っておいで」
俺の言葉に、彼女はぱちぱちと目を瞬いてから、ふわっと笑ってみせた。
「ありがとうございます。お心遣いとっても嬉しいです。では、行って参ります」
中村さんは女湯の方へ向かい、俺は「男」と書いてあるのれんをくぐった。げた箱同様、古い木製のロッカーが並び、その一つに脱いだ服を入れて浴室へ入った。
レトロな雰囲気はそのままだが、定期的に改装が行われているようで、タイルには欠けも汚れもない。洗い場は他の学生で賑わっているが、それほど窮屈な印象はなく、俺は手早く身体を洗って浴槽に浸かった。
視界は湯気で白んでいる。
照明に映し出される白い水蒸気の粒を眺めていると、昼間に見た白い服の幽霊のことを不意に思い出す。帰ったら幽霊の出たあの部屋で、ひとりで寝なければならないのだ。そう考えるととんでもなく憂鬱な気分になってきた。俺はとりあえず忘れようと息をつき、湯船を出る。
髪を乾かしてロビーでコーヒー牛乳を飲んでいると、五分後に中村さんが出てくる。
「お待たせしましたか?」
「いや全然。なんか飲む?」
「フルーツオレを買ってきます」
彼女がそう言うので、俺はポケットの中にあった小銭を出して差し出した。
「これで買ってきなよ」
「いいんですか」
「いいよ。おつりは返してね」
「もちろんです。ありがとうございます」
中村さんは深くお辞儀をしてから、番台で小銭を渡し、冷蔵庫からフルーツオレの瓶を取り出して帰ってきた。
「おつりです。ごちそうさまです」
五十円玉を俺の手に置き、彼女は隣に座ると両手で瓶を持って、美味そうにフルーツオレを飲んだ。
「美味しい?」
俺の問いかけに、彼女は大きく頷いた。
「いろんな果物の味がして大変美味しいです。久しぶりに飲みました」
こちらを見上げる中村さんを見て、俺は実家の妹のことを思い出す。五つ下の生意気な小娘だが、俺が飲み物や食べ物を奢るといつも嬉しそうにしていた。可愛いかと言われれば、まあ、可愛いと応えるだろう。妹と目の前の年下の女の子を重ね合わせることが、今の俺にとっては、とても自然なことのように思えていた。
「俺も緊張してたのかもしれないなあ」
そう言うと、中村さんはこちらを見て少し首を傾げた。
「中村さんが引っ越してきて、なるべく早く馴染んでくれたら良いなって思ってたけど、俺も中村さんと同じくらい緊張してたのかも」
彼女は、ふっと目を細めて見せた。
「先輩、わたしが変なやつだから、あんまり関わりたくないんだと思っていました」
「えっ、なんで?」
予想外の言葉に、俺は思わず声を上げる。
「よく考えれば、というか、よく考えなくてもそうなのですが、居間で急に瞑想を始める後輩ってびっくりしますよね。それまで全然話さなかったのに、その話題だけすごい饒舌になるのもちょっと変だったし。先輩は荷物を運んでくださいましたが、わたしのお部屋には近寄りたくなさそうだったので……」
彼女は空になったフルーツオレの瓶に視線をやりながら、小さな声で言う。
「誤解!」
俺は体ごと中村さんの方に向き直る。彼女は顔を上げて俺の方を見た。
「ごめん、ちゃんと言わなかったのが悪かった。俺は、中村さんの部屋を大事にしたかっただけなんだ」
言葉を探すように、俺は視線を泳がせる。
「それでなくともいつも人がいる家だから、個人のスペースに立ち入っちゃ悪いかなって……。あ、俺の部屋はフリースペースみたいなもんなんだけど。でも、中村さんは、大事にしてね。四年間過ごす、自分の部屋だから」
上手く説明できただろうか。俺は彼女の方を見る。中村さんはゆっくりと口の端を上げて、
「じゃあ、先輩はわたしのことがお嫌いではないんですね」
と嬉しそうに言った。
「当たり前でしょ」
「安心しました。そして先輩は大変お優しい方だということもわかりました」
彼女は腰を上げ、俺の前に立った。
「もしよろしければ、わたしのことは、沙羅とお呼びください。わたしもなな先輩とお呼びします。児玉さんがななくんって呼ぶのが可愛らしくて好きなので」
えへへと笑って、彼女は俺の目をまっすぐ見る。昼間の人見知りが嘘のようだ。この子は優しくされるとすぐ人に懐いてしまう性格なのではないかと心配になる。
「沙羅、ちょろいって言われない?」
「頻繁に言われます」
「やっぱり」
「怪しい方にお菓子をもらって、ついていきそうになったこともございます」
「そうだと思った……よくここまで無事に生きてきたね……」
ひとつも褒められていないのに、沙羅は照れたようにてへへと笑う。俺は息をついて、
「いい? 児玉さんにはマジで気をつけて。あの人はなんていうか、ちょっと人として問題があるから」
沙羅に言い聞かせる。沙羅はしっかり頷いて、こう続けた。
「存じ上げております。昨日綺麗な赤いハイヒールを差し出されて『これで蹴ってほしい』と言われました。サイズもぴったりでした」
「あの野郎」
俺はあのやたら整った顔を思い出して苦々しい声を上げる。帰ったら俺がスニーカーで踏んづけてやろうと思っていると、
「でも児玉さんは良い方なんです」
と沙羅が弁明する。
「今日わたしにケーキを買ってきてくださいましたし、実は……焼き菓子のセットもくださったんです!」
「怪しい方にお菓子でつられてるよ! 気をつけて!」
俺が悲鳴のような声を上げると。沙羅はおかしそうに声を上げて笑った。それから、
「あの方は大丈夫ですよ」
妙に確信めいた口調で言う。何かもうひと言続けようと思ったが、
「フルーツオレごちそうさまでした。お待たせしちゃってごめんなさい」
と彼女が言うので、会話はそこで途切れた。
銭湯を出て、沙羅と並んで夜道を歩く。田舎特有の土っぽい匂いがした。顔を上げると、黒々とした生地山のシルエットが浮かび上がって見える。春先とは言え、まだこの時間は少し冷える。「湯冷めしないように早く帰ろう」と言った。
「夕ご飯美味しかったですね」
俺の隣に並びながら、沙羅が呟いた。そうだなと俺は応える。
「今、ちょっとホームシックです、わたし」
その言葉に反して、沙羅の表情は幸福そうだった。
「先輩、ごきょうだいはいらっしゃいますか?」
彼女は俺の顔を見上げて尋ねる。俺は、さっき脳裏に描いていた妹のことを思い出し、
「妹がいるよ。五つ下の」
と、応えた。
「仲良しでしたか?」
「そんなめちゃくちゃに仲の良い兄妹ってわけじゃなかったけどね。ああでも、しょっちゅうクッキー作りを手伝わされてた」
「お菓子作りがお好きなんですね。かわいい」
「いや、好きだけど手を動かすのは面倒とか言うものぐさ娘だったよ。俺もめんどくせーって思ってたけど、クッキーが焼き上がる前に二人でオーブンの前で話をするのはそれなりに好きだったな」
「素敵なご兄妹です」
沙羅は満足げに頷いた。
「わたしには二人兄がいて、下の兄が五つ上なんです。先輩と少し似ています」
山の方から風が吹く。顔を上げるともう深山荘は目前だった。
「なな先輩」
「なに?」
「またお風呂つれてってくれますか?」
玄関の直前で沙羅が立ち止まり、俺を見上げて言った。俺は笑う。
「また明日行こうな」
沙羅は安堵したように「ありがとうございます」と頷いた。それから少しの間、沈黙が流れた。沙羅は迷うように、少し目を泳がせる。
「どうかした?」
「あの、ええと、先輩」
「うん?」
「いえ……」
なかなか踏ん切りがつかないようだ。沙羅は俯いて何も言わない。
「大丈夫だよ」
俺は言う。沙羅が俺の顔を見上げた。
「え?」
「まだ緊張するのも大丈夫。人見知りも悪いことじゃないし、これから友達もたくさんできるし、深山荘の人たちはみんな味方だから、大丈夫。寂しくないからな」
彼女が俺に何を言い淀んでいるのかわからない。わからないが、きっと不安なのだろうと思った。無理に聞き出すことはしたくない。でも、安心はしてほしい。俺の言葉に沙羅は目を見開き、
「なな先輩は、本当にお優しい方です」
少し泣きそうな顔で笑った。