
◇
帰路についたキョウスケは頭の中で、先ほどのユイとのやりとりを反芻していた。ひどい態度を取ってしまった自覚はあった。しかしキョウスケは、カイのことを忘れて先に進もうという気にどうしてもなれない。
次第に陽が落ち始める。いまだ強い陽射しをその背にじりじりと浴び、キョウスケが帰り着いたのは築三十年の激安賃貸マンションだ。キョウスケは四年前からここに住んでいる。
エレベーターがなく、階段でしか上り下りができない四階建て。そこの二〇四号室がキョウスケの部屋だった。
「あれ、電気消し忘れてる?」
二階の自分の部屋の窓から、光が漏れていることに気づく。些細なことではあるが、カイの命日に何かを忘れるなんて。
慣れた足取りで部屋の前までいくと、室内からかすかにテレビの音が聞こえてきた。
「あ、テレビも消し忘れてる……」
そんなに色々忘れるだろうか、と釈然としないものを感じながら解錠し、キョウスケがドアを開けた瞬間。
部屋の奥からテレビの音と――誰かの大きな笑い声が溢れてきた。
キョウスケはようやく状況を理解する。自宅に何者かが侵入しているのだ。突然湧き上がった恐怖に、動くことも声を発することもできない。
侵入者も、部屋のドアが開いたことに気がついたのだろう。室内から笑い声が消え、代わりにガタッと何かを動かす音が聞こえる。
そうして大きな足音が近づいてきて。
「よう!」
部屋に不法侵入した男は悪びれることもなく、右手を上げてそう声をかけてきた。
「――っ」
キョウスケは目を見開き、絶句してその場に立ち尽くす。顎のラインを伝って冷や汗が流れ落ちた。
そこにいたのは金髪で小柄、見覚えのある着古したロックTシャツにダボダボのダメージジーンズを穿いた若い男。
彼は笑顔でキョウスケのことを見ている。
「…………」
「あれ~? キョウちゃ~ん!」
キョウスケがよく知っている、人懐っこい声。二度と会えない、失ったはずの存在。
「お~い! キョウちゃ~ん!」
その男はさらに距離を縮め、キョウスケの目の前に顔を近づけてきたり手を振ったりと動きまわっている。
キョウスケはようやく声にならない震えた声を出した。
「カ、カイ……?」
目の前の金髪小柄な男は一瞬きょとんとした顔をし、その直後、爽やかな表情を見せる。
「うん! カイだよ。久しぶり!」
ついさっき、法要に行ってきたばかりだというのに。
生きていた頃と何も変わらない姿で、カイがキョウスケの目の前に立っていた。透けてもいないし、脚もある。いったい何が起こっているのか。
頭の中が真っ白になったキョウスケは、呆然とカイを眺めることしかできない。
「ほら! 玄関で立ち話もあれだし、中入れば?」
キョウスケの混乱をよそに、カイはまるで自分の家みたいにそう言って踵を返した。
この図々しさがカイの長所であり、欠点でもある。
そしてその振る舞いは、この金髪小柄な男がカイ本人であることを裏付けていた。キョウスケは冷静さを取り戻すために、一度深く呼吸をする。
途端に、脳に酸素が流れ込み、様々な疑問が一気に押し寄せる。キョウスケは玄関で靴を脱ぎ捨て、急いでカイの後を追った。
「本当に……カイ、なんだよね?」
カイは室内のソファにどかっと腰かけていた。
「だから~! そうだって!」
「……なんでここにいるの?」
「キョウちゃんに会いにきた!」
カイは気持ち良いほど元気よく、そう言い切った。
しかし、死んだ人間が再び現れた理由には全くなっていない。
「どうやって? なんでここにいるの? ぜんぜんわからないんだけど!」
キョウスケはカイにひたすら疑問をぶつけ続ける。混乱のせいで、意図せず語気が強くなっていく。
「カイ! 答えろよ!」
「……」
カイは問いに答えず、無言で部屋の片隅に置かれた電子ピアノへと視線をやった。そうして、少し寂しそうな声色で言う。
「キョウちゃん、ピアノやめたの?」
ピアノの上には洗濯物や郵便物が無造作に積まれていた。もう何年もその蓋は開かれていない。
「あ、うん……」
カイの直球な質問に、キョウスケは後ろめたい気持ちになる。
「ってか、それよりなんでいるんだよ。カイは三年前に……」
「うん。死んだ」
キョウスケがためらった言葉をあっさりと引き継ぐ。
まるで普通のことのように話すカイを前にして、キョウスケは返す言葉が見つからない。
いつだってそうだった。カイはどんな状況でも、明るく振る舞える人間だった。誰にでも気さくで、人懐っこくて――。そんなところが人に愛される所以だったし、実際、キョウスケもそんなカイだからこそ心地良い時間を共に過ごせた。
カイは家主であるキョウスケに気を遣う素振りもなくキッチンに向かい、我が物顔で冷蔵庫を開ける。
「あー! ドクペないんだけど。買っといてよ~」
キョウスケとカイは、この部屋で練習する時によくドクターペッパーを飲んでいた。ドクターペッパーとは、独特なアメリカンチェリーのような味の飲み物だ。
「……ごめん。――ってか! ここ、俺の家だから! 飲みたいなら自分で買ってこいよ!」
キョウスケは反射的にツッコんだ。その瞬間、学生時代の二人のやりとりが鮮明に思い起こされる。
「俺、死んでるんだから買いにいけるわけないじゃん。キョウちゃんの家といえばドクペなのに~」
「やめてよ! 黒歴史だから!」
「キョウちゃん、ドクペ飲むのがカッコいいと思って、ひたすら飲んでたもんな~」
キョウスケはピアノの椅子に腰かけ、カイはソファに戻って胡坐をかく。いつの間にか、二人は三年前までの定位置に収まっていた。
「なぁ、カイ。どうしてここにいるの?」
キョウスケが改めて投げかけた問いに、カイは少しだけ悩んだ表情をしてから口を開く。
「――忘れ物、取りにきた」
「忘れ物……?」
「うん。でもそれが具体的になんなのか、思い出せないんだよね。ここに来るまでは覚えてたはずなんだけど……。キョウちゃん、心当たりある?」
再び笑顔に戻るカイ。キョウスケも「忘れ物」に思考を巡らせるが、まったく見当がつかなかった。
「うーん……」
すると突然、カイが「キョウちゃん! 音楽やろうよ!」と声を張り上げる。思わずキョウスケはピアノの椅子から転げ落ちそうになった。
「いやいや! 急に言われても無理だよ。もうピアノは辞めたし、歌もずっと歌ってないから!」
カイはソファから立ち上がり、ずいっとキョウスケの眼前まで近づく。そして。
「ほらっ。まずはピアノの上、片付けよ!」 満面の笑みで、キョウスケにそう提案した。
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