『今夜、世界からこの恋が消えても』試し読み

歩き始めた二人のこと

1

 今日という日を私は、スマホのアラーム音とともに始める。
 遠くで鳴り響く音に起こされた時、私はまずそのことを疑問に思う。
 あれ、どうしてスマホが鳴ってるんだろう?
 目覚まし時計やアラームで起こされることが嫌いだから、眠る時はカーテンを引かず朝の光で目覚めるようにしていた。それなのにスマホの目覚まし機能が働いている。
 しかも枕元にあるはずのスマホの置き場所が変わっていた。ベッドとは正反対の場所にある、ディスプレイラックの上に置かれているのだ。
 寝床を抜け、ペタペタとフローリングの床を歩む。なんだろう、今日はちょっと暖かいな。そもそも何時なんだろう。スマホの目覚まし機能を止めて時刻を確認した。
 わずかな違和感を覚えながらも、時刻は五時と確認出来た。
 …………なんで、こんな時間に?
 夜は勉強してから十二時くらいに寝るので、まだ五時間しか眠っていない計算になる。でも不思議と体は、十分な睡眠をとった感触があった。
 誤作動でもしたらしい目覚し機能に溜息を吐くも、今がゴールデンウィーク中だということを思い出す。そうだった、休みだ。やった。
 私は寝付きはいいが、一度起きると簡単には眠れない。気を取り直して、一階に下りてカフェラテでも作って飲もうかという気分になった。
 とりあえず部屋の電気をつける。
《私は事故で記憶障害になっています。机の上にある手帳を読みましょう》
《一日入魂》
《まずは手帳だ。さぁ、机の上を見よう》
 外はまだ闇に覆われている。頼りない光が灯った室内で私は沢山の張り紙を見つけた。  
 ぞわりと背筋が震え、奇妙な感触に鷲掴みにされる。 
 え、何これ……。
 見慣れない張り紙が、見慣れた私の字で書かれていた。そして今になって先ほどスマホを見た時の違和感に気付く。急いで画面を確認する。日付がおかしい。
 昨日は、四月二十六日だったはずだ。ゴールデンウィーク初日だからよく覚えている。
 それなのに一ヶ月以上日付が飛んでいる。張り紙に奇妙なことも書かれていた。
 事故? 記憶障害?
 混乱に突き落とされていると廊下から足音がした。目を向けると扉がノックされる。 
 返事をするとマグカップが載ったトレイをお母さんが持ち、少しばかり厳粛な面持ちで部屋へと入って来た。え、なんで……どうして?
 疑問は多かったが張り紙について尋ねる。するとお母さんは言いにくそうに答えた。
「真織。あなたはね、事故に遭ったの。それで、記憶障害になってしまったの」
 事故や記憶障害の詳細を聞いて、茫然となる。
 言われて思い出す。事故、確かにそれはあったことだ。間違いない昨日のことだ。
 世間ではそれはしかし、昨日じゃない。もう何十日も前のことになっている。
 嘘でしょ? 自分の顔が引きつっているのが分かった。
 だけど必死に前日のことを思い出そうとしても、その事故があった”昨日”のことしか思い出せない。嘘の可能性を疑ったが、お母さんが嘘をつく必要もない。
 つまり――私は本当に、記憶障害になっているということなのか。
 正直、ちょっと笑えない。笑いたいけど、笑えない。
 気を落ち着けるため、お母さんが持ってきてくれたカフェラテを椅子に座って飲む。
 大好きなシナモンが入ったそれは、普段のように私の心を落ち着けてはくれない。
 私は震えていた。そんな私をお母さんが苦しそうに見つめている。
 それから毎日の私がやっていることだとお母さんに教えられ、過去の私たちが書いた手帳やノートに目を通すことになった。
 私は毎朝、それらを読むために早起きをしているようだ。そのために夜は遅くとも十時には眠りに就く。
 私に付き合って、お母さんも生活リズムを変えてくれているみたいだった。何か聞きたいことがあったら下にいるからと、お母さんはそう言って私を一人にしてくれた。
 机の上に置かれた手帳に、私は視線を向ける。
 見慣れない、だけど私が好きそうなシンプルなデザインの手帳はバインダー式になっていた。ページを継ぎ足すことが出来る上に、横に少しはみ出した仕切りにより、項目が一目で分かるようになっている。
 お母さんによれば、普段はスマホでメモを取りながら、必要なことをこの手帳にまとめているという話だった。手帳であればデータが消える心配もないからと。
 恐る恐る手帳に手を伸ばす。最初の項目は「重要」と題されていた。 
 私が事故に遭ったことや障害の症状、そのことは私の両親や泉ちゃん、学校の先生しか知らないことなど、重要なことがそこには書かれていた。
 私はどうやら記憶に障害を負っていることを、クラスメイトには話してないらしい。
 その理由も書いてあった。
 学校に記憶障害のことを両親と相談すると、障碍者の特例が国で定められていることから、出席日数さえ足りていれば卒業を認めてくれるという話になったらしい。
 ただその際に、記憶障害の危険性について指摘されたそうだ。
 思いもしなかったが、記憶障害の噂が広まることは危険なことでもあった。
 どんなことがあっても、私はそれを覚えていることが出来ない。忘れてしまう。
 誰に、どんなことをされても、一日が過ぎれば……。
 噂が広まった場合、学校内の色んな人が私を一目見ようと教室に来るかもしれない。そして今の時代、情報は学校を超えて簡単に広まってしまう。
 もちろん、世の中は悪い人だけじゃない。良い人だって沢山いる。言えばきっと、クラスの皆は気遣ってくれるだろう。だけど、誰かに話さないという保証はない。何か事件があってからでは遅い。その恐怖が、毎日の私の精神的な負担にもなりえてしまう。
 出来るだけストレスを避け、楽しいことをして精神を落ち着けること。それが大事だと、医師からも伝えられていたらしい。
 そういった事情もあって、私は泉ちゃん以外との付き合いを極力避けているみたいだ。
 重要と書かれたそのページを一通り確認していると、息が詰まりそうになった。
 開いていた未来が急に閉ざされ、暗闇の中に置き去りにされた気分だ。途中で読むのを放棄したくなる。事実の重みに……打ちひしがれそうになる。
 だけど向き合う。少しの希望に似た何かも、重要と書かれたそこにはあったから。
《こんな状態の私ではありますが、恋人が出来ました。手帳の「彼氏くん」という項目と、五月二十七日以降の日記を読んでください。彼氏くんのことが書いてあります》
 手帳に書かれたその文章を再び眺め、しばらくの間、考え込んでしまう。
 私に恋人が……でも、どうして? こんな状態だし、いったいどういうことだろう。
 覚悟を決めて、まずは手帳の「彼氏くん」のページを読む。
 相手は、別のクラスの神谷透くんとのことだ。接点がないのでほとんど覚えがない。
 多分、白くて細い人だ。
 手帳の内容によると、写真や動画もスマホの専用フォルダにあるらしい。
 スマホを見てみると確かにこの人だ。恋人同士がするような二人寄り添った自撮り写真もある。付き合った経緯も手帳の「彼氏くん」のページに書かれていた。
 神谷くんが放課後になると突然私を校舎裏に呼び出し、告白してきたのだそうだ。しかし好きだから言っているのではなく、どうにも言わされている感があったらしい。
 普段なら断るだろう。でもその時の私は閃いて、この告白に便乗してみようと考えたみたいだ。こんな状態でも何か新しいことが出来ないか頑張ってみようと。
 私はそれまでの一日で、何も積み重ねることが出来ない自分に愕然としていたようだった。一日が何も出来ずにただ流れいく。そこで思い切って飛び込んだらしい。
 付き合うにあたっての条件が三つ。
 一、放課後まではお互い話しかけないこと。
 二、連絡のやり取りは簡潔にすること。
 三、本気で好きにならないこと。
 要約するとこういった感じで、条件の理由も書いてあった。
 一つ目は、こんな状態でも私は学校に通っているため、手帳や日記を読んで自分のことを整理する時間が必要と考えてのことだ。
 二つ目は、小まめに連絡されても時間の都合で応えられないし、昨日の私との話題をメッセージ上に持ち越されても困るから、ということだった。
 三つ目は、付き合うといっても、こんな状態ではいずれ別れることになる。だから恋愛感情は持たないようにしよう。擬似恋人みたいなもの、との理由だ。
 続いて神谷透くんのプロフィールに目を通す。
 誕生日、家族構成、血液型、好きな作家などの情報から、どういう人かということ。
 没落貴族、おかん、衛生感を大切にする人。衛生感ってなんだろうと思ったら、その説明もしてあった。清潔感はいくらでも装えるが、衛生感は装えないものだという。
 へぇ、と少しばかり感心してしまう。軽く彼に興味を覚えている自分に気がついた。
 ノートにも思い切って手を伸ばしてみる。
 手帳で重要事項をまとめる一方で、ノートは「日記」として使用しているらしい。
 事故の翌日から今に至るまでの日々が、日記形式で綴られていた。短時間でこれまでのことを読むために、一週間単位で日記の内容をまとめたりもしてるみたいだ。
 日記の方は手帳とはかなり色合いが違っていた。格式ばらず、自由に書いてある。
 時間のこともあるので、まとめられた日記にまずは目を通す。毎日の私は以前と変わらない日常を、それと悟られないように頑張って過ごしているみたいだ。
 彼氏くんが現れるまでのことをざっくり確認し終えると、いよいよ彼氏くんが登場するという五月二十七日以降の個別の日記に取りかかる。 
「放課後」「デート」「彼氏くん」「泉ちゃん」「彼氏くんの家」「紅茶」
 自分のことなのに信じられず、時間も忘れて読み込んでしまう。
 当然ながら明るいことばかりではなく、落ち込んでしまうような内容もまとめられた日記には含まれていた。頑張って特進クラスに入ったのにその意味がなくなってしまったことや、友達付き合いのこと。なかなか治らない記憶障害のことがそうだ。
 それが彼氏くんが登場して以降の日記は、どれもポジティブで楽しそうなことばかりが綴られていた。彼氏くんとこんなことを話しただとか、その時の表情がちょっと可愛かっただとか。どうでもいいことがどうでもいいだけに、そういったことを感じられる余裕が昨日の私たちにもあったのだと知り、今の普通じゃない私を勇気付けてくれる。
 朝日はいつの間にか昇り、あっという間に朝の七時になっていた。
 その頃には、直視すべき記憶障害の恐怖がほんの少しだけ和らいでいた。 
 二階の部屋からリビングに移動すると、お父さんが新聞を読んでいた。昨日と変わらない気もするが、わずかに緊張しているようにも見える。
 視線を向けていると、お父さんがさっと新聞を下げた。ニコッと笑う。
 ……ひょっとして、毎日こんな調子なんだろうか。
「あ、えっと、ご迷惑をおかけしております」
 頭を下げると、お父さんが慌てて立ち上がった。
「迷惑だなんて、そんな、とんでもない。なぁ、母さん。真織が助けなかったら、あの子だって命がなかったかもしれないんだ。お前は本当に立派なことをしたんだ。記憶の障害だって、珍しいけど全く症例がないってわけじゃないんだ。時間はかかるかもしれないが、治る見込みもある。のんびりやっていこう」
 朝のお母さんの説明もそうだけど、毎日これを言わせてしまっていると思うと申し訳なくなる。でも沈んだ顔を見せるのが一番よくないことだと思い、元気に頷いてみせた。
 ほっとしたのかお父さんは少しだけ不自然に豪快に笑った。
 それから朝食を一緒に取り、自分の部屋に戻る。手帳を確認すると、土曜日の今日は十二時から噂の彼氏くんと公園デートの予定となっていた。
 しかしデートか。すごいな、私。
 どんなお洋服を着ていこうかと悩んでいたら、スマホが電話を着信した。泉ちゃんだ。
「あ、真織? 今日、確か神谷とデートだよね。大丈夫そう?」
 昨日のうちに話したのか、泉ちゃんは私の予定を知っているようだった。
「ごめんね泉ちゃん。なんだか面倒なことに巻き込んでるみたいで」
「面倒なこと? あぁ、記憶のことだったら気にしないで。やれることしか私はやってないし、やりたいことしかやらないから」
 あっけらかんと言う泉ちゃんの言葉に、私は救われる。
 泉ちゃんはその気質もあって容易に人と親しくならない。でも彼女が親しくすると決めた人、結果的に親しくなった人には、とことん親切にしてくれる。
「そう言ってもらえると助かります。それで今、デートに着ていく服で悩んでるんだけど」
「しらん」
「えぇ?」
「のろけ、いらん」
「のろけじゃないよ」
 そんな泉ちゃんにも、昨日の私たちが伝えていないことがある。
 神谷くんとは擬似恋人の関係であることを、過去の私たちは泉ちゃんに伝えていない。
 もう十分面倒に巻き込んでしまっている気もするが、彼氏くんとのことは自分の我儘でもあるし、出来る限り私たちだけで対処しようと思ってのことらしい。
 服をとっかえ引っかえしながらどうにか服装が決まる。
 あいた時間で手帳や日記を読み込んだ。最初は随分と気落ちしていたが、驚くくらいにすんなりと私は”今”という状況に適合していた。
 お母さんに出かける旨を伝え、お父さんには「ちょっとデートに行ってくる」と言ったら目を見開かれてしまったが、外出する準備も済んだ。
 どうしても送るというお父さんの提案を大丈夫だからと笑顔で断り、電車と徒歩で約束の公園まで向かう。公園に向かって歩きながら、思った。
 なんだ、私、結構普通にやれてるじゃん。恋人くんの情報も、頭の中にばっちりと入っている。見上げると、空から光が音となって降り注いできそうな、いい天気だ。
 私はこうやって、日々を案外普通に過ごせるのかもしれない。
 今日のこともまた、手帳や日記に残さなければ……消えてしまうのだろうけど。
 
 約束の場所には、写真で確認していた彼氏くんらしき人がいた。
 私服だと分かりにくいが、パリッとしたシャツや、洗い立てみたいなスニーカー、毛玉一つない黒いデニムから、衛生感という文字が読み取れる気がした。
「えっと、透くん、だよね」
 声をかけると、彼は読んでいた本から顔を上げた。
「あ、うん」
「ごめんね、私服姿は見慣れてないから、ちょっと自信なくて」
 そうやって弁解すると納得したみたいだった。
 記憶障害のことは隠しているので、彼氏くんには伝えていない。いつか伝える日がくるのだろうか。それとも、すんなり別れてしまう日の方が早いのか。
 小さな感慨に揺れていると、彼氏くんの傍らにあるピクニックバスケットに気付いた。
 それから話して新しく知ったことだけど、彼氏くんにはお姉さんがいたらしい。
 そのバスケットもお姉さんのものということだ。死別ではないとのことだが、寂しそうに話す彼を放っておけなくて「お腹が空いちゃった」と言うと笑ってくれた。
 そこから先、私たちは恋人みたいなことをした。
 緑の絨毯が広がる芝生広場に足を運び、木の下にレジャーシートを敷く。
 休日の家族を遠くに見ながら、彼氏くんお手製のお弁当を頂いた。野菜が多くて彩り豊かなサンドイッチを頬張る。カロリーが抑え目にしてある副菜も美味しかった。
「透くんはいいお婿さんになれるね」
「日野だって……あ~~どうだろ」
「なんでそこ、最後まで肯定し切ってくれないかな」
 そう言いながら顔を向けると、彼氏くんは笑っていた。
 なんだろうこれ、不思議な気分だ。見ず知らずの彼は私に心を許していた。
 それだけじゃない。私もごく自然に彼に心を許している気がする。
 それがなんだか暖かくて、人間はこんなことが出来るんだと驚いた。
 記憶が一日しかもたなくても、情報でしか目の前の人のことを知らなくても。その人が自分を知っていてくれて、その人の中に私とともに過ごした記憶があれば、こうやって柔らかい眼差しで自分を見てくれる。
 不思議と、安心してしまう。無言になっても嫌じゃない。
「不思議だなぁ」
「どうしたんだ?」
 その想いが言葉になって口から漏れると、彼氏くんが尋ねてきた。
 視線を一度合わせた後、私は前を向いて応じる。 
「いや、不思議だなぁって。なんだか、本当に不思議。心が急かないっていうか、苦しくない。無言でも、ぜんぜん退屈でも窮屈でもない。こうやって二人で、静かに時間を積み重ねてきた気すらするよ」
 穏やかな日差しを視界に感じながら、私たちは時間という本を読む。
 その中で私は、こんな自分を作った神様について考えた。神様はきっと私たち人間に無関心だ。人間の尺度を越えたところにいる神様は、善でも悪でもないだろう。
 けれど、優しいのではないかと。ひょっとしたら、神様は……。
 風が吹き、私の髪を揺らす。押さえていると彼氏くんからの視線を感じた。
 気付いた時にはもう、彼の口から言葉が発せられていた。
「日野のことを、好きになってもいいかな」
 私はゆっくりと彼に顔を向ける。神谷透くんは、真剣な表情で私を見ていた。
 泣きそうな心地で、思った。
 ううん、やっぱり……。神様は意地悪で、残酷だ。