
4
恋人が出来たからといって、僕の日常が劇的に変わるわけじゃない。
翌日もいつも通りに学校へと向かった。
気付くと電車の中で、通学路で、昇降口で、日野や綿矢を探している自分がいた。
新鮮な気持ちだった。自分の生活に、新しく誰かが入ってくるということ。
教室では下川くんと話す。次の週末に彼は引っ越してしまう。短い付き合いとはいえ、日野たちとは反対に自分の生活から人がいなくなることは寂しくもあった。
それは、慣れた感慨でもあったはずなのに。
「ねぇ、ちょっと聞いてもらってもいいかな」
そんな下川くんはいつも何かしらの問題や話題を抱えていて、それを僕に話してくる。今日の悩みは平和なもので、自分の贅肉に関することだった。
「やっぱり、もう少しやせた方がいいのかなぁ」
ちなみにこの話題は三度目となる。僕はいつもの調子で否定した。
「いや、よく考えてみてよ下川くん。下々の人間は贅肉なんてつけられないんだよ」
「でもさ、アメリカだと太ってる人は、自己管理が出来てないって思われるらしいよ」
「アメリカ人が考える肥満と日本人が考える肥満は、随分と違うらしいけどね。彼らからしたら下川くんなんて太ってるうちに入らないと思うけどな」
僕が説くと、下川くんは自分のお腹を見つめた。
「下川くんがやせたいなら応援するけど、無理しなくてもいいんじゃない」
「う~ん」
「それにさ、少しくらい太ってないとサマにならない台詞もあるよ」
「例えば?」
「ステーキ一キロなんて、君への想いでたやすく消化しちまう。お代わりだ」
「ワイルドだ」
「君が太ってる? どこが? 俺からすれば君はスリムなレィディさ」
「ワイルドでいて紳士だ」
「揺り籠から墓場までとは言わないが、頂きますからご馳走様まで、食べ残しのない人生を君に誓おう」
「わけが分からないけど格好良い。そうか、ワイルドなぽっちゃりになればいいんだ」
これは断じて下川くんで遊んでいるのではない。彼は考え過ぎる傾向にあり、それで落ち込んだりする。それを防ぐため、なるべくポジティブな言葉を投げかけているのだ。
それからしばらく下川くんは、少しだけ顔付きがダンディになった。
太っているからこそ言える口説き文句を探し、でも自分が女子と交流がないことに気付くと、昼休みの時間には栄養満点のお弁当を前に空を仰いでいた。
「神谷くん、君から学ぶことは多いけど、結局人は行動しなくちゃだめってことだね」
「え? どうしたの急に?」
弁当箱を開ける手を止め、僕は尋ねる。今朝のことで何か彼を傷付けてしまっただろうか。心配だったが、下川くんは穏やかな表情をしていた。
「ううん。もうすぐ転校しちゃうから分かることって、結構あるよね。君はいつも、僕を励ますような言葉を投げかけてくれてた。だけどそれって、実はすごく恵まれてたことなんだ。自分から行動して、頑張って女の子とも仲良くなってみたらよかったよ」
悔いを残す発言をしながらも、どこかサッパリとした口調で下川くんは言う。
そんな彼を前に、僕は頬を緩めた。
「転校先では、女の子とたくさん仲良くなったらいいよ。新しい環境は、自分を新しくするチャンスでもあるからさ」
「そうなったら、神谷くんにも紹介するよ。あぁでも、日野さんに怒られちゃうかな」
下川くんは、僕と日野が擬似恋人であることを知らない。
楽しそうに言う下川くんに、僕は曖昧に微笑んでおいた。
放課後になると昨日に引き続き、僕は教室で日野を待つことにした。
下川くんは「それじゃ、また明日」と手を上げて僕に挨拶すると、教室を出て行った。
その動作があまりに自然だったので「また明日」と普通に応じてしまった。
雑誌をめくっている最中にふと気付く。
下川くんは今日、一人だ。開いていた雑誌を閉じる。
彼が嫌がらせを受けていないか心配になり、走って下駄箱へ向かう。靴入れを確認すると、下川くんの上履きはあったが、靴は残っていなかった。
どうやら、校舎内でトイレなどに連れ込まれてはいないようだ。
それでも気になって靴に履き替え、昇降口を出る。すると校門に向かってのんびり歩いている下川くんの後ろ姿が見えた。
ほっと息をつく。誰かに肩を組まれて、どこかに連れて行かれる様子もない。
そうやって昇降口の前で佇んでいると、背後から誰かが声をかけてきた。
「なにダッシュしてんだよ」
声だけで、それが誰かということは分かった。
振り返ると例のアイツがいた。下川くんに嫌がらせをしていたグループの主犯格の男だ。僕に日野へと告白させた男でもある。
「そんなに心配かよ、あのデブが」
「友達だから当たり前だろ」
苛立った口調で返すと、ソイツは小馬鹿にしたように笑う。
「友達、ね」
それから僕を見据えると、今日の昼休みに担任と生徒指導の先生から、下川くんのことについて注意を受けたと告げた。それは、僕が知らない話だった。
「下川のやつ、俺たちが金をせびってたところを録音してやがったんだ」
「録音……? 下川くんが?」
「そ、二回目か三回目の時のやつかな」
他人事のように言うソイツの口調は、どこか諦めに乾いていた。
「まさか度胸も行動力もない下川が告げ口するなんて、考えてもなかった。笑えるぜ。生徒指導の野郎が今になって話した理由を下川に聞いたら、なんて答えたと思う? 自分のことはいいけど、自分がいなくなった後、万が一にでも俺たちがお前や他の誰かから金をせびろうとしないか心配になって、思い切って話した……だとさ」
それからソイツが話すところによると、下川くんは昨日、母親が転校の手続きで学校に来て一緒に挨拶した後、一人残って担任と生徒指導の先生に話したらしい。
驚きに言葉が上手く出てこない。下川くんが、そこまで考えていてくれたなんて。
「あんなことしてたら、いつかこうなるのは当たり前だろ? どうしてだよ。なんであんなことしてたんだよ。お前だって、努力してこの学校に入ったんだろ」
僕の問いかけに、目の前のソイツは笑った。
どこか、悲しげだった。
「なんでだろうな……わかんね。勉強も少しは自信あったのに、いつからサボることになんとも思わなくなったんだろうな。友達だと思ってた連中も、俺に命令されたって急に手のひら返してさ。金も絡んでるし、下川のオヤジたちが出てきて警察沙汰にされる前に謝れって言われたよ。下川はいらないって言ったらしいけど、金も返せってな」
ソイツは僕の前でまた笑うと、「あ~あ」と呟く。
「どうして俺の人生、こんなにつまらなくなっちまったかね。なぁ、神谷」
なんと応じればよいか分からず、僕はじっと目の前の男を見た。
ソイツはふっと笑みをこぼすと、校門に向けて歩いていった。
下川くんの後を追うのだろうか。自棄になって暴力を振るわないだろうか。
そんなことを考えながらも、アイツはそこまで馬鹿じゃないと思い直す。
もともとは努力して、希望を持ってこの学校に入ってきたはずの人間だ。
今は少し、生き方を間違えてしまっているだけで……。
教室に戻ると誰もいなくなっていた。当たり前だけど、下川くんもいない。
席に着き、使うことが滅多にない携帯電話を鞄から取り出す。下川くんに電話しようかと思ったが、通話ボタンを押す寸前のところでやめた。
下川くんも考えがあってのことだ。彼から切り出すまで、知らないフリをした方がいいだろう。
雑誌を開いてぼんやり読んでいると、昨日と同じ唐突さで日野が現れる。
「あっ、いたいた、私の彼氏くん」
そのまだ見慣れない顔に、少し救われている自分がいた。自分に会いに来てくれる女の子がいるというのは、なんだか不思議な気持ちだ。
「それって、僕はなんて返せばいいのかな」
苦笑しながら尋ねると、日野はちょっと考え込んだ。
「やぁマイハニー、とか?」
「海外の映画でも、最近はあまり聞かない気がするな」
「ふむふむ、彼氏くんはマイハニーはお好みではないと」
「それ、メモするんだ」
スマホで日野がメモを取っていると、その後ろから呆れたような声が発せられた。
「まったく、あんたたち、こんなポワッポワした会話を普段してるんだ」
綿矢が顔を出し、砂糖菓子で胸焼けしたような表情で僕らを見ている。何度か目にしたことのある日野と綿矢揃っての姿だが、こうして三人で話すのは初めてのことになる。
「今日は綿矢も一緒なんだな」
「まぁね。ちょっと二人のことが気になってさ」
そう綿矢は応じると教室の敷居をまたぎ、僕の机へと向かって来る。
そのあとに続いた日野が、また僕をマジマジと見つめていた。
「どうしたんだ?」
「え? あぁ、うん。ぜんぜん。なんでもない。あはははは」
「そんなことよりさ、美女が二人も来てるんだよ。神谷はもうちょっと嬉しそうな顔したらどうなの?」
昨日も話して分かったが、少しとっ付きにくいところはあるものの綿矢は飾らない性格の持ち主らしい。
「美人は三日で慣れるっていう言葉、綿矢は知らないのか」
そんな綿矢に軽口で応じる。その返答は想定していなかったのか、綿矢は「へ~」と感心したような声を出すと楽しそうに口角を上げた。
「それを言うなら飽きるでしょ? そもそも会話するようになってからまだ三日も経ってないし。真織とだって、昨日初めてちゃんと話したんじゃない?」
綿矢に話題を振られ、それに日野が明るく応じる。
「そうなのです。昨日はお互いのこととか話したよ」
「ほぉ、例えばどんなこと?」
それから日野は僕が片親であることに気を遣ってか、家族構成を除いた僕に関することを綿矢に伝えた。その話の中で、綿矢もAB型だということが分かった。
「あ~あ、変な三人が集まっちゃった感じだね」
綿矢がどこか楽しげに言う。
「でも泉ちゃん、三人寄れば文殊の知恵って言うじゃない」
「この三人じゃ文殊菩薩のいい迷惑だって。菩薩様が苦笑いしてる顔が見えるわ」
テンポよく言葉を交す姿から、二人の仲のよさが垣間見えた。
日野はなんでも楽しそうに話し、綿矢はクールに返す。
「あと、透くんは西川景子さんっていう作家が好きなんだって」
その綿矢の顔が、「は?」と驚きの色に染まった。
「西川景子? またマニアックな。というかさっきから気になってたんだけど、その雑誌って文芸界だよね。なに、神谷って文学少年なの」
そして僕が開いていた雑誌について言及を始める。
文芸界は日本を代表する純文学雑誌の一つで、例えば有名な芥河賞は、ここに掲載された新人の作品が選考対象ともなっている。
僕が好きだと答えた西川景子もこの雑誌で作品を掲載しているが、まさか彼女のことや雑誌を知っている同級生がいるなんて思わなかった。
「いや、別に……文学少年ってわけじゃないけど。というか、綿矢もどうして西川景子のこととか、この雑誌のこと知ってるんだ」
定額のお小遣いを受け取らないようにしている僕にとって、月々の家計を上手くこなし、浮いたお金で雑誌や本を買うことは楽しみになっていた。
もっとも、この雑誌は父さんも読むので折半で購入しているのだが。
その雑誌を掲げて尋ねると、しれっとした顔で綿矢は応じる。
「あぁ、私、純文学が大好物だから。フランス映画とか日本映画、最近だとロシア映画も好き。あぁいう大多数にはどうでもいい、至極個人的で、じめじめしてるやつ」
同年代にそんな人間がいるとは考えもせず、改めて驚いてしまう。
一方、視界の端では日野がまたスマホでメモを取ろうとしていた。
「日野、文学少年って僕のこと書くなよ」
「違うの? 分かった。文学少年と呼ばれることが嫌いな文学少年、って書いておくよ」
「なんか、こじらせてる奴っぽいな、僕」
今日はその三人で放課後を過ごすことが決まり、場所を移すためにひとまず学校を離れた。駅に向かう途中、本や作家のことについて僕と綿矢が並んで話していると、後ろからパシャリという音が響く。思わず振り返った。
「日野、なんで撮ってるんだ」
日野がスマホで僕と綿矢の後ろ姿を撮影していた。追及すると悪戯がばれた小学生みたいな顔を見せる。
「神谷、無粋なこと言わないの。恋人の写真を撮ることに意味なんてないでしょ」
そうやって言う綿矢は、僕と日野が擬似恋人の関係であることを知らない。
「まぁそうかもしれないけどさ。慣れないっていうか」
「三日で慣れろ」
「無茶言うなよ。美人の二人と話すのも、まだ慣れてないっていうのにさ」
それから綿矢と「さっきは慣れたって言ったくせに」「いやまだ三日経ってない」などと教室での話を蒸し返すようにしていると、「じゃあさ」と日野が提案する。
「ここは慣れるためにも親睦を深めよう。どこかで三人でお茶でもしない?」
「え、お茶? まぁいいけど」
話はそのあと、どこへ行くかに移った。しかし二人が提案するファミレスや喫茶店は僕には少しキツかった。あまり手持ちのお金に余裕がないのである。
「いいってば。私が無理やり付いてきて二人だけの時間を奪ってるんだし、それくらい奢るって。禁止だけどバイトもしてるから余裕あるしね」
「いや、だけどな綿矢、そういうのはあんまりよくないっていうかさ」
「いいからいいから」
綿矢と押し問答をしていると、考え込んでいた日野が声を上げる。
「あっ、いいこと思いついたかも。まだ時間も早いことだし」
僕と綿矢は揃って顔を向け、それから日野は思ってもみないことを口に出す。
「いっそのこと透くんの家っていうのは? それならお金もかからないでしょ」
「は……?」
間抜けな声が漏れたのは、当然ながら僕の口からであった。