
5
「おっじゃましま~す」
結局、二人きりでなければいいかと納得をつけ、我が家に来てもらうことになった。
その我が家だが、どこにも誇るところがないありふれた団地の一室だ。
「わぁ、透くんの家、すごく綺麗にしてるんだ」
だというのに物珍しげに日野は室内を見回し、「写真、いい?」などと聞いてくる。
「いや、まぁ。別にいいけど」
姉さんがいなくなってから、この家に女性が足を踏み入れることはなかった。
見慣れたくすんだ景色が、ほのかに華やいだ気がする。
ただ、どうにも現実感が僕に追いつこうとしない。まさかこんなことになるなんて。
とりあえず二人には食卓椅子に座ってもらい、僕は台所でお湯を沸かして紅茶の準備を進める。週に三日は紅茶を飲むので慣れたものだ。
その間、日野と綿矢は女子特有のキャッキャッとした声で話していた。
「というか、神谷の家は本当に片付いてるね。この時間に家族の人はいないって話だけど、お母さんがすごく綺麗好きなの?」
「いや、綿矢には話してなかったけど、ウチは僕と父さんの二人暮らしなんだ。掃除とかは僕の趣味みたいなのもので。まぁ一応、綺麗にはしてる」
茶葉の蒸し時間を計りながらなんでもなく答えると、日野が自慢げに言い添えた。
「そうなのです。私の彼氏くんは衛生感を大切にしているのです」
「衛生感? 清潔感じゃなくて?」
僕が片親であることには深く追及せず、綿矢が日野に尋ねる。
「ノンノン、清潔感は装えるものだけど、衛生感は装えないものだよ。よく見ると透くんのシャツって、襟や袖がピシっとしてるでしょ。あとあと、ハンカチも毎日洗ってアイロンを掛けてるんだよ。そういう目に付かないところも綺麗にするのが、衛生感」
「は~」と、感心したような呆れたような声が綿矢の口から上がる。
「話してみるまで分からなかったけど、神谷って結構変わってるよね」
「綿矢にだけは言われたくないけどな。っと、よし、もう紅茶が入るぞ」
そうこうしている間に茶葉の蒸し時間が終わる。温めておいた紅茶カップからお湯を捨て去り、淹れ立てのレディグレイを陶器のポットからそこに注ぐ。
ベルガモット特有の爽やかな柑橘の匂いが台所に香った。
「はい、粗茶ですが」
「いや神谷、緑茶じゃないんだから」
「あ、そっか、紅茶だとそう言わないんだね」
紅茶が入った二人のカップを先に食卓へと運ぶ。続いて特売のクッキーを盛った白い大皿とともに、自分のカップを持って行く。
姉さんがいた頃の名残で椅子は三脚ある。僕も食卓椅子に腰かけ、紅茶を啜った。
オレンジとレモンが加えられたフレーバーティーは飲み易く、心も落ち着く。
「わ、美味しい。透くん、紅茶淹れるの上手いんだ。それにすごくいい香り」
対面に腰かけていた日野が紅茶を口に含むと、驚いたような反応を見せる。
「……本当だ。何これ。え? どこの茶葉?」
綿矢の口にも合ったようで、内心でほっと息を吐く。
下川くんも気に入ってくれていたので自信はあったが、感想を聞くまでは緊張する。
「スーパーの安いやつ。レディグレイは安くても美味しいんだ。まぁでもちょっとジャンピングが上手くなかったな。七十七点くらいだ。お代わりもあるから、遠慮なく」
味を確認した後は紅茶がたっぷり入ったポットを台所に取りに行く。
綿が沢山詰まったティーコゼーを掛け、食卓に置いた。裁縫も姉さんから習い、ティーコゼーくらいなら簡単に作れた。
白く簡素なカップから再び紅茶を啜っていると、僕を見ている二人の視線に気付く。
「え? なに」
「今になるまで気付かなかったけど、なんか、神谷って没落した貴族みたいだね。妙に上品なところとか特に」
「没落とか言うな。そして日野、君はまたすぐにメモるな」
それからも三人で何くれとなく話し、ポットと皿は空になる。
やがて二人は我が家の探索を始めた。とは言ってもありふれた団地の2LDKだ。父さんの部屋を見せる訳にもいかず、リビングと僕の部屋くらいしか見るものはない。
綿矢は本に興味があるようで、僕の部屋の本棚を熱心に眺めていた。
日野はパシャパシャと僕の部屋を撮影している。まぁ、いいけど。
「しかし日野は、どうしてそんなに写真を撮るのが好きなんだ? こんな部屋、撮るまでもないだろ」
「そんなことないよ。男の子の部屋って入るの実は初めてだし、楽しい」
日野と話していると、綿矢がどこの誰とも知れないオッサンのような声を上げる。
「お~お~お~、神谷さんよぉ。いい趣味してますねぇ。古書店で売れば結構な値段になりそうなレア本もちょくちょくあるじゃん。これ、どこで仕入れてるの?」
「そこら辺は、父さんが古書店から漁ってきたのを適当に。うちの父さん、本を買ってはそこら辺に放っておく人だから、仕方なくリビングか僕の部屋の棚で整理するようにしてるんだ」
感心したような、そうでないような声が二人から漏れる。
「透くん、やっぱりちゃんとしてるね。本が沢山あるのに、部屋の中もぜんぜん埃っぽくないし」
「まぁ、衛生感は大事だからさ」
「あ~でたでた、衛生感」
「綿矢、頼むからゴキブリみたいに言うなよ」
それから二人がなぜかアイロン捌きを見たいと言い出したので、洗濯していたものを取り込み、見せられない男のものはそっと隠し、ハンカチやシャツにアイロンを掛けた。
綿矢からは上手過ぎて引くと言われ、日野は楽しそうに動画で撮影していた。
夕刻が迫ると二人を最寄り駅まで送ることにした。
ついでに夕飯の買い物を済ませようと思い立ち、粗品で貰ったエコバッグを手にして二人と並ぶ。
「こ、この没落貴族、エコバッグが似合って仕方がない。この高校生、なに」
綿矢が笑いをこらえていたその間抜けな姿は、日野に正面から写真で押さえられた。
なんとも現実感のない一日だった。
夜、夕飯の支度を済ませ、食卓で教科書を開いて予習をしていると扉が開く音がした。
父さんが帰宅したようだ。遅いと思ったら顔を出した父さんは赤ら顔になっていた。大して飲めもしないのに、またどこかで飲んできたらしい。
「父さん、飲んで帰るなら帰るでちゃんと連絡してよ」
「いや、すまんすまん。透に恋人が出来たのが、嬉しくて、ついな」
その恋人が今日、友人を連れて遊びに来たことを伝えると父さんは目を見開いた。
「入れたのか、こんな家に」
「別に父さんの部屋とかは見せてないし、いいだろ?」
「もちろんだとも。でも、あれだ。なんか……いい匂いする?」
「頼むから外で、そういう変なことは口走らないでくれよ」
溜め息を吐きながら台所に向かい、料理を温めるなどして自分の夕飯を用意する。
食卓椅子に腰かけた父さんが僕をじっと見ていた。
「なに?」
「なんだかお前、勝手に大きくなっちゃたな」
僕は何も応えずに、冷蔵庫から作り置きの煮物を取り出した。
それからとめはしたものの押し切られ、父さんは我が家で飲み直した。用意していた夕飯のおかずを肴に発泡酒を飲み始めると、半分も飲まないうちに父さんはつぶれる。
「まったく、お風呂にも入らないで」
仕方ないのでタオルを温め、起こした父さんにそれで体を拭くよう言った。
その間に部屋へとお邪魔し、布団を敷いてやる。以前、放っておいたらリビングのソファで眠り込み、翌日になって体を痛めたことがあったのだ。
父さんの部屋で屈んで布団を整えていたら、ふらふらの家主がやってくる。
「大丈夫? 強くないんだから、あんまり飲まないでよ。ほら、ちゃんと着替えて」
「大丈夫だ、早苗、心配するな。俺は、だいじょぶだ」
その言葉に一瞬だけ体の動きを止めてしまう。父さんはそんな僕には気付かずに寝巻きに着替えると、敷き終えた布団に横になった。すぐに寝入ってしまう。
部屋を出て襖を閉める間際、僕は父さんに視線を向けた。
ひどく酔っていたのか父さんは、僕を姉さんと間違えていた。