『今夜、世界からこの恋が消えても』試し読み

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『ま、私も神谷と似た感じというか、そういう家だから気楽に来てよ』
 僕が使用している定期券の区間内ということもあり、翌日の放課後は綿矢の家へと遊びに行く流れとなっていた。
 日中の学校は平和で、下川くんも登校してのびのびと過ごし、例のアイツはグループから外れて孤立していた。バイト雑誌を眺めていたように思うが、声はかけなかった。
 放課後になると日野と綿矢と合流し、三人で綿矢の家に向かう。綿矢も電車通学をしていた。僕と日野よりも学校に近く、同じ方向に二駅進んで電車を降りる。
 綿矢が住んでいるのは賃貸マンションで、エントランスがオートロック式になっていた。オートロックに憧れていた僕は、高級感のあるエントランスに見入ってしまう。
「って日野、また撮影か?」
 そんな僕に向けて、笑顔の日野がスマホを構えていた。
「彼氏くんが驚いてる姿を、動画に収めておこうと思ってね」
「間抜け面さらしてるだけだろ。限りあるデータの無駄だって」
「いいからいいから」
「お~い。なにイチャついてんの? 早く来なってば」
 先に進んでいた綿矢に促され、僕と日野はエレベーターホールに向かう。
 綿矢は母親と二人暮らしをしているとのことだ。
 その母親は本などの装丁を主として手掛けるデザイナーさんらしく、夜は家で仕事をしているが、日中は何かと用事が多くて出かけているらしい。
 綿矢は時々そんな母親を手伝い、資料探しや書類作成、レシート管理などの仕事をアルバイトとして行っているという話だった。訳あって、父親とは別居中らしい。
 女性だけが暮らす家に男一人で訪れるのは、正直ちょっと緊張した。
「まぁ、とにかく座ってよ」
 我が家よりもかなり広い、開放感のあるリビングに通される。母親がデザイナーなだけあって絵が所々に飾られ、一つ一つの家具や小物にもこだわりが感じられた。
 十階建ての最上階から臨める空は高く、洗濯物が……。
「すまん、綿矢。一瞬、ちょっと何か見えた」
「ん? あ~あれね、大丈夫大丈夫。私は気にしないし、ってかごめん、神谷が気にするよね」
 そんな一幕はあったものの僕と日野はリビングの椅子に対面で腰かけ、綿矢が淹れてくれるという紅茶を待った。
 ふと、今日もまた僕をじろじろと見ている日野の視線に気付く。
「どうした、日野?」
「没落貴族」
「それ、忘れろって」
「ごめんごめん。でもそのキーワード、結構ぴったりかもって思ってさ」
 日野なりに褒めてくれているのかもしれないが、手放しでは喜べない。その思いが表情となって表れていたのか、日野にこんなことを言われてしまう。
「そんな顔しないで、もっと笑ってよ」
「いや別に、変な顔をしてるつもりはないんだけどさ」
 そう言いながらもきっと、僕は変な顔をしているんだろう。
 その僕とは対照的に、日野は今日も朗らかに笑っていた。
「日野は、いつも笑ってるよな」
 どんな気負いもなく僕が感想を漏らすと、日野はわずかに眉を上げた後に応じた。
「あぁ、うん。まぁね。本当はいつもじゃないんだけどさ。笑える時にはしっかり笑っておこうと思って。人間って笑えない時には、本当どうやっても笑えないから……って」
 そんな答えが返ってくるとは考えもせず、思わず日野を見つめてしまう。
 僕の意外なものを見る目に気付くと、日野はすぐに弁解を始めた。
「あ、いや。実体験とかそういうのじゃなくて、単に漫画とかで読んだやつだからね」
「そうなのか?」
 訝しい思いで見つめると、日野は作り笑いと分かる顔で「そうそう」と頷く。
「まぁ、ならいいけどさ。でも、なんだ」
 そこで僕は、僕らの事情を知らない綿矢に聞こえないよう、日野へと体を寄せながら声を潜めた。
「僕たちは擬似恋人だけど。困ったことがあるんなら、遠慮なく言えよ」
「え……? あ、うん」
 日野の驚いた顔を間近で眺める。
 するとそこに「はいは~い」とトレイを持った綿矢が、割って入ってきた。
「あんたたち、イチャつくんなら私の目の届かないところでやってくれるかなぁ」
 その綿矢の言葉に、日野はいつもの彼女らしく冗談を言って返した。
「でも泉ちゃん、それだと声は聞こえちゃうかもよ」
「うわ、大人のジョークで返してきた。恋人持ちの余裕か、この~」
 紅茶が載ったトレイをテーブルに置くと、綿矢が日野をくすぐり始める。日野は抵抗していたが、やがてくすぐったそうな声を出す。
 僕はそんな二人を眺めながらも、先ほどの日野の発言に考えを及ぼした。
『人間って笑えない時には、本当どうやっても笑えないから』
 日野は漫画のことだと言っていたが、その割には実感がこもっているように感じられた。それは、僕の勘違いなんだろうか。
 そんなことを考えながら、綿矢とじゃれ合っている日野を改めて見つめる。
 人の心は見えない、覗けない。日野は屈託なく、楽しそうに笑っていた。