
8
楽しみにしていた土曜日が訪れる。
朝早くに家事を一通り終わらせてしまうと、僕はお弁当作りに取り掛かった。
メニューは迷ったが、紅茶にもよく合うサンドイッチにした。
片栗粉を塗した鶏肉をフライパンで焼き、カロリーオフな鳥のから揚げ風も作る。
サラダも必要だ。紅茶にフルーツも合うから簡単に用意しよう。
父さんは朝から自室にこもっていた。多めに淹れた紅茶のお裾分けを持っていくと、我が家に一台しかないノートパソコンで文章を打っている。
「また小説書いてるの」
「あぁ、文芸界新人賞の締め切りまでもう少しだしな。お、なんだ、いい香りだな」
座椅子から振り返った父さんに、紅茶が入ったカップを渡す。
小説を書くのは父さんの趣味であり、楽しみでもあり、ひょっとしたら人生そのものかもしれない。僕が生まれる前から書き続けているという。賞はまだ取れていない。
そんな父さんは、小説家になって生計を立てることを夢見ている。家のことはそれを理由に蔑ろにしているが、やはり強く言えない。
「今日は僕、ちょっとデートに出かけるから昼はいない。冷蔵庫に余分に作ったサンドイッチとか入ってるから、昼はそいつを食べておいて」
「おぉ、助かる。しかしデートか。よし、ちょっと待ってろよ」
そう言うと父さんは立ち上がり、財布を探して開いた。しかめっ面をした後にタンスを漁り、封筒から紙幣を取り出す。
「ほら、これお小遣い。お前は頑なに月々のお小遣いを受け取らないけど、家計費の浮いた分だけってのも、高校生としてやっぱり限界があるだろ」
「いや、いいよ。食費で紅茶とか自分の好きなもの買ってるし、定期券を買ってる上に、携帯を持たせてもらってるだけでも有難いって」
「定期券って、お前が自転車で高校に行こうとするのを俺がとめたんだから、当たり前だろ。携帯電話も超激安プランだぞ。いいから、これくらい取っておけよ」
僕は差し出された一万円札をじっと見つめた。
お金には力が宿っている。それは、人を幸せにする力だ。
美味しいものを食べれば人は笑顔になるし、気に入ったものを生活の中に取り入れるのだって、小さな喜びや日常の活力を得られる。
でも、だからこそ慎重に使う必要がある。
「じゃあ半分だけ使わせてもらうよ。残りの半分で今日、何か美味しいものでも食べよう。父さんの好きなすき焼きはどう? この季節だから白菜はなくても、お肉ならいいのがあるからさ」
「半分なんて言うなよ。だけどそこが妥協ラインか。それじゃあ、その半分で今日はご馳走になります」
父さんはそう応じると、早く受け取れとでも言うように改めてお札を差し出した。
「ありがとう。じゃあ、今夜は楽しみにしてて」
「透も、楽しんでこいよ」
お札を受け取ると、父さんに改めて御礼を言って部屋を出た。自室に戻り、中学時代から使い続けている財布にお金を収める。
家のことを細々とやり、それを終えると姉さんが愛用していたピクニックバスケットを押入れから引っ張り出した。
籐で編まれた、あめ色の丈夫なバスケットだ。そこにお弁当や水筒などを詰める。
少し早いが十一時には家を出ることにした。我が家から歩いて十五分ほどの場所に、大きな総合公園がある。桜並木で有名な公園で、春になると沢山の人で賑わう。
日野とはそこの噴水前に十二時の約束だった。
自転車を使おうかとも思ったが、風に吹かれたくなったので徒歩で向かうことにする。
結局、約束よりも三十分以上早く公園に着いた。
人もいるが、込み合っているわけじゃない。噴水が見えるベンチに腰かけ、バスケットに入れておいた文庫本を取り出す。
小さい頃から、休日の日は外で本を読むのが好きだった。
多分、少し変わった子供だったのだろう。それだけで不思議とワクワクして、周囲に家族が溢れていても、自分はそれほど孤独じゃないと思えた。
それに、僕には分かっていたからだ。
本に集中し過ぎて、夕闇が迫る頃まで読みふける。周囲の暗さに気付いてはっと顔を上げ、不安になっていると、決まって誰かがそんな僕を見つけてくれた。
『やっぱり、ここにいた』
紫が混じった茜色の空を背負い、誰かが歩いてくる。
そうやって姉さんが……。
「えっと、透くん、だよね」
声に促されて本から顔を上げる。少しばかり緊張した表情の日野が、目の前にいた。
公園の柱時計で時刻を確認すると、あれから三十分以上が過ぎていた。
「あ、うん」
「よかった。ごめんね、私服姿は見慣れてないから、ちょっと自信なくて」
「いや、気にしないでくれ。こっちこそごめんな。来てるのに気付かなくて」
そこでふと、いつもとは違う日野の格好に気付く。
白いシャツを羽織り、柔らかそうな素材の緑色のロングスカートをはいている。
そういえば、日野の私服姿は初めて目にした。
その姿に目を奪われていると、僕の傍らにあるものに日野が気付く。
「それ、お弁当? すごい、そんなちゃんとしたピクニックバスケット、初めて見た」
「これか? 姉さんが昔、バザーかなんかで安く買ってきてさ」
「お姉さん? あれ、ごめん、その話って聞いたっけ? 確か、お父さんと二人暮らしだったんじゃ……」
「あぁ、うん。今は二人暮らしだけど、ちょっと前まではいたんだ、姉さんが。死んだとか、そういう理由じゃないんだけど……」
返答に詰まっていると、何かを察した日野が「そっか」と受け、明るい声を出す。
「私、お腹が空いちゃった。お弁当、どこで食べる? って、お昼まで待たせちゃったのは私なんだけどさ」
そう言って、眩しいような笑顔を日野は見せた。
眩しい光に当てられると、その分だけくっきりと影が浮かび、その影に捕らわれてしまうことが人間にはある。家族を失った人間が、幸福な家族を見ている光景のような。
だけど日野から発せられる明るさは、僕を寂しくはしなかった。
世界のあらゆる悲劇の何割かは、所詮は自分の内のことなのかもしれない。
日野の笑顔につられるように微笑むと、僕は立ち上がった。
それから僕たちは、休日の公園という風景に溶け込んだ。
上手い具合に芝生広場の木の下の一つがあいていて、直射日光もそこなら気にならない。レジャーシートを敷き、お昼時を楽しむ家族連れを遠くに見ながらお弁当を広げた。
食事をする前に日野はまた写真を撮っていた。
「は~~、美味しかった。すごいね、透くん。こんなに料理上手なんだ」
楽しさもあり、話しながら食べているとあっという間に時間が過ぎてしまう。
お金のかからない材料で作った料理ではあったが、口に合ったのならよかった。
「実は家にあるものを適当に使っただけだから、本当に、大したものじゃないんだ」
「でも美味しかった。透くんはいいお婿さんになれるね」
「日野だって……あ~~どうだろ」
「なんでそこ、最後まで肯定し切ってくれないかな」
苦笑する。爽やかな空気を呼吸し、空を仰いだ。
まるで物語世界に生きる住人のようだと自分のことを思った。奇妙な縁で隣の人と繋がっている。けっして僕らは好き合っている関係ではないのだ。
それでも休日をともに過ごせる人がいることが有難かった。嬉しかった。
僕たちはまたなんでもない話をし、笑ったり感心したり、ぼうっと景色を眺めたりした。やがて無言が横たわる。少なくとも僕は、その無言を窮屈には感じなかった。
「不思議だなぁ」
呟く日野に顔を向ける。それに気付いた彼女は、柔らかく頬を緩めた。
「どうしたんだ?」
「いや、不思議だなぁって。なんだか、本当に不思議。心が急かないっていうか、苦しくない。無言でも、ぜんぜん退屈でも窮屈でもない。こうやって二人で、静かに時間を積み重ねてきた気すらするよ」
日野の見えないところ、気付かないところで何かが震える。
一瞬、僕は幸福だった。
積み重なってきたものが少しでも二人の間にあるのなら、それを嬉しく思う。
瞼を閉じた。そうすると感覚がわずかに広がる。その感覚を楽しんだ。
太陽の暖かさ。芝生の匂い。隣の人の息遣いすら、感じられるような。
強い風が吹いて目を開く。隣の彼女が長い髪を押さえていた。
その短い時間の中で、僕は何かを言おうと思った。
恋を嘘に出来なくなっている自分に、気が付いた。
「日野のことを、好きになってもいいかな」
尋ねた時にはもう、風はやんでいた。
今と言い終わらないうちに終わってしまう、今、この瞬間を思う。
好き、そうか。そうだったんだ。口に出して実感した。僕は君のことが……。
ゆっくりと時間をかけて、日野が僕に顔を向ける。
「だめだよ」
彼女は言った。
「どうして」
僕は尋ねた。
迷いに巻かれているように、日野が俯く。
「私ね……」
また、風が渡った。日野の長い髪を一陣が攫おうとする。
「病気、なんだ。前向性健忘っていってね。
夜眠ると忘れちゃうの。一日にあったこと、全部」
その声は風にまぎれてか、僕に届くまでに時間を要した。