逢う日、花咲く。

※本ページ内の文章は制作中のものです。実際の商品と一部異なる場合があります。

【記憶転移】き-おく-てん-い

 臓器移植手術を受けた際、臓器提供者(ドナー)の記憶の一部が受け継がれる現象。
 臓器の提供を受けた患者(レシピエント)は夢としてドナーの記憶を追体験したり、自覚のないまま本来知りえない知識を得たりする。記憶のほかに、趣味嗜好を受け継ぐ場合もある。

 なお、そのような現象について、科学的な根拠は一切認められていない。

●第一章 二人の、初恋。

 今日もまた、夢を見た。
 その夢の中でだけ、僕はこの世に確かに生きているのだという実感を得る事ができた。
 そこでは彼女は、明るい陽射しの中でセーラー服を風に躍らせ、友人達と明るく笑い、輝く未来に胸を弾ませ、全身から生のエネルギーを迸らせていた。
 彼女の内側は、水だった。温かな海のようでもあった。その海の中で僕は、ゆらゆらと漂いながら、彼女の目を通して、彼女の見るものを見ていた。その耳を通して、彼女が聞く音を聞いていた。その温かな皮膚を通して、彼女が触れるものを感じていた。そうして僕は「僕」である事のあらゆる辛苦を忘れ、彼女になってこの世界を楽しんでいた。
 空はどこまでも青く澄んで、風は柔らかくそよぎ、人々は優しく、全てがキラキラと、世界中が輝いていた。

 その夢を見る日は、いつも泣きながら目を覚ます。カーテン越しに差し込む朝日の中で、鳥達の囀りの中で、どうしようもない憧憬に全身を引き裂かれながら体を丸め、迷子の子犬のような呻き声を、喉の奥から静かに漏らした。
 僕は、そこに行きたかった。あの、輝きの世界に。
 布団から出て、洗面所で顔を洗う。鏡に映る男は、夢で彼女の瞳越しに見る鏡の中の、夏のヒマワリのような顔とは似ても似つかず、生気のない表情をしていた。洗面台に両手をつき、ゆっくりと深呼吸をする。僕は、今日も生きなくてはならない。右手を胸に当て、その鼓動を大切に確かめる。
 朝食を摂った後、制服に着替えてアパートを出た。階段を降りながら、ケータイで母親にメッセージを送る。「おはようございます 学校に向かいます」。「分かりました 気を付けて」。すぐにいつもの返事がくる。息のつまるあの家にいる事が嫌で、一人暮らしが出来るように他県の高校を受験した。その交換条件としてこの定期連絡を行っているが、僕はこの人に、子供として愛されているのか、世間体の為の道具として守られているのか、分からない。
 初夏の陽気の中で、心臓の鼓動に歩調を合わせ、ゆっくりと歩く。そうする事でいつも、夢の彼女と一緒に歩いている気持ちになれた。道端で揺れるタチアオイの赤い花を愛おしく眺める。花言葉は、気高く威厳に満ちた美、熱烈な恋、など。この花の名前なんて、昔は知らなかったし、興味もなかった。僕は夢の中で、彼女を介して得た知識を、何よりも愛していた。

  なしなつめ きみにあはつぎ はふくずの のちもあはむと あふひはなさく

 タチアオイの登場するこの作者未詳の万葉の一首も、彼女から学んだものだった。様々な植物を季節を追うように登場させ、それに準えて君に逢いたいという気持ちと、いつか逢う日には花が咲くようにという希望を、葵の花に乗せている。いつかの夢の中、柔らかな日差しの降り注ぐ教室で、朝露に揺れる新緑のような美しさで、この歌に触れて心を震わせる彼女を、僕は内側から感じていた。
 君に逢いたい。いつか、逢いたい。
 でも僕には、その「いつか」は、永遠に訪れない。

 高校の授業は、大半がつまらなかった。適当にノートを取りながら、窓の外を眺めていた。それでも、夢の中で彼女になっている記憶から、勉強はそこそこできた。
 体育の授業の時は、本当は過度に激しくない運動であれば問題ないのだが、嘘をついていつも見学していた。高校に入ってからの体育の初日に、僕の喉仏の下から腹部まで伸びるピンク色の傷跡を見せてから(事前に教頭から僕の経歴を聞いていたのかもしれないが)、体育教師は僕を壊れ物の硝子細工のように、必要以上に慎重に扱った。いつも体育を見学する僕のその異質さからか、興味を持って声をかけてくるクラスメイトも初めは何人かいた。でも、おざなりに対応しているうちにやがて大半が興味を失ったのか、二か月もすると僕は教室で空気の一部となる事ができた。ただ一人、今も前の席から話しかけてくる小河原を除いて。
「ホズミンはさ」
 八月朔日(ほずみ)という僕の珍しい苗字を、彼は勝手に改造して呼んでくる。
「実際の所、なんでいつも体育見学してるわけ?」
 頬杖をついて空をゆっくりと流れる雲を眺めていた僕は、小さく溜息を吐き出した。
「胸のケガの影響って、前に話したじゃんか」
「だから、その胸のケガって何なのさぁ。もう二か月くらい休んでるけど、一生体育できない程のモノなの?」
「体育は一生はやらないだろ?」
「話をそらすなって。そういうデリケートな問題をあいまいに濁されるとさ、遠慮とか気遣いが発生して、今後の付き合いに支障が出るかもしれないだろ。だからはっきりさせときたいんだよ」
 小河原は僕の机にヒジをつき、身を乗り出した。細いフレームの眼鏡の奥の目を悪戯っぽく細め、「友達としてな」と小さく付け加えた。
 僕は、いつも。この世界での時間や生というものを、現実味を持って感じられない。あの夢を頻繁に見るようになってからは特に。僕が本当に存在しているのはここではなくて、夢の中の、あの、輝くような日々を送る彼女の、その柔らかな身体の内側なのではないか。そんな事ばかり考えていた。
 それでも、こちらの世界で生きなくてはならない僕は、そこで支障なく過ごす為にも、入学から二か月経つ今でも僕を構ってくる小河原の存在には、助けられていた。
 少し迷ったが、頬杖をついたまま瞼を閉じて、声を出すためにゆっくりと息を吸った。
「中学一年の時に」
「お? おうおう」
 瞼のもたらす闇で見えないが、僕の雰囲気を察したのか、小河原が姿勢を正す音と気配がした。
「心臓の、移植手術を受けたんだ」
「……マジかよ」
 目を閉ざしていると、感覚の大半を支配する視覚が遮られ、その他の感覚が鋭敏になる。
 彼女の心臓が僕にもたらす鼓動の、その優しく甘やかなリズムに、耳を澄ました。