逢う日、花咲く。

 彼女の夢から覚めて泣いていなかったのは、初めてかもしれない。僕は、驚いていた。
 この夢は、本当に葵花の記憶なんだろうか。あるいは全て僕の妄想が作り出した幻なのか。もしくは、先ほどの夢の最後だけ、僕の記憶が混入したのか。
 ――何故、葵花の世界に、星野先生が登場するのか。
 いや、考えるまでもなく、分かる事だ。彼女の高校に、星野先生が赴任していた事があったのだろう。でもそれは、僕にとって一筋の光明だった。この心臓以外での、葵花との初めての繋がりだ。
 緊張なのか、喜びなのか、不安なのか、よく分からない感情で彼女からもらった心臓が高鳴っているのを感じながら、僕は跳ねるように布団から飛び起きた。

 急いだので、いつもよりも三〇分近く早く学校に着いた。外は夢と同じように雨が降っていたので、ズボンの裾も靴下も濡れてしまったが、気にならなかった。誰もいない教室に鞄を置き、足早に職員室に向かう。
 ノックをすると、中から「どうぞ」という声が聞こえた。扉を開くと、中にいる教師達は既に慌ただしい雰囲気を漂わせながら、それぞれのデスクで何やら作業をしている。入口に一番近い場所に席を持つ体育の若木先生が振り向いた。
「おお、ホズミか。どうした、早いな」
「えっと、星野先生は……」
「ああ、それなら」
 若木先生が体を捻るのと同時に、
「ここだよ、ホズミ君」
 との声が右手側から上がった。振り向くと、教室で見せるのと同じ微笑を浮かべた星野先生が、小さく手を振っていた。若木先生に頭を下げてから、そちらに向かう。
「ホズミ君が俺の所に来てくれるなんて思わなかったなぁ。どうしたの、授業で分からない所でもあった?」
「いえ、あの……」
 もっと、話の切り出し方を考えてから来るんだったと後悔した。目の前にいる星野先生は、ついさっき見た夢とは違いシルバーフレームの眼鏡をかけていて、髪型も少し異なるが、夢と同じ人懐っこそうな微笑みをしている。左胸の彼女の心臓が、苦しく軋んだ。僕はそれに苛立ちのような焦燥を感じ、突き動かされるように声を出していた。
「鈴城葵花という人を、知っていますか」
 星野先生は微笑みをやめるとその整えられた眉を少し上げ、ちらりと僕の目を見た後、腕を組んで目を閉じた。
「うーん、俺も一応教師として日々沢山の人と接しているからね。名前だけで記憶のデータベースを漁るのは時間かかるよ。何か他にキーワードないの?」
 これまで、夢で見知った彼女に関する事は僕の中だけに大切に留めていたので、それを他者に話すという事に多大な躊躇を感じる。それでも僕は、目の前にいる彼女との接点から、何としても情報を引き出したかった。だから、夢で見た、彼女が通っていた高校の名前を出した。
「そこで、演劇部に所属していた……」
「ああ……」
 星野先生は腕を組んだまま、ゆっくりと瞼を上げた。しかしその目は伏せられたまま、どこか遠くを見ているようだった。
「知って、いるんですか?」
 彼の瞳が動き、僕に向けられる。その顔に、いつもの微笑みはなかった。
「キミは、彼女と知り合いなのかい?」
 緊張で乾いた唇を舐め、細く息を吸う。嘘をつく時は、視線を逃がしてはいけない。
「実は以前、その人と文通をしていた事があって」
「はは、文通とは随分古風だね」
「でもある時から、全然連絡が取れなくなったんです」
「うん」
「で、風の噂で、その人が、亡くなったと、聞いて……」
「……うん」
「どうして、亡くなったんだろうって、ずっと気になってて」
「……そうか」
 先生は溜息を吐き出すようにそう言うと、再び目を閉じた。
「本当は、他の生徒の情報を無闇に話すべきではないんだけど、キミには、話していいだろう」
 気付けば、痛いくらいに両手の拳を強く握っていた。心臓の鼓動が早くなっていた。固唾を飲んで言葉を待った。
「彼女の事は、本当に驚いたし、とても残念だったよ」
 先生は、遠くの哀しみを見据えるように、静かな表情だった。
「明るくてまっすぐで、周りを笑顔にしてくれるような、すごくいい子だったから」
「……はい」
「だから、本当に、驚いた」
 続く言葉に僕は、体中の力が抜けて周りの空気がガラガラと崩壊していくような錯覚を感じた。
 嘘だ、と叫ばなかったのは、その声を出す力さえなかったからだと思う。
 でも、信じられなかった。
 どうして。
 なぜ、あんな幸せそうな彼女が。

「彼女は、自殺したんだよ」