ふしぎ荘で夕食を ~幽霊、ときどき、カレーライス~

大学前大通りには、スーパーやコンビニが並んでいる。そのスーパーの横の路地に入ると古い街道に繋がっていて、木造家屋の民家や、いつ開店しているのかわからない個人商店や、銭湯などが軒を連ねる。そこからさらにもう一本路地を入った生地山の麓に、深山荘はある。
 深山荘は一階が共用スペースで、居間とトイレと浴室がある。トイレは各部屋にもついているので使用頻度はあまり高くない。二階が個室になっていて、それぞれ四畳半のスペースが設けられている。
 玄関を開ける。土間には小さなサイズのスニーカーが揃えてあり、中村沙羅が帰ってきていることを告げていた。
 俺は昼休みのことを思い返す。あの後、中村さんはどんな風に一日を過ごしただろう。友達はできただろうか。彼女にどう話しかけようかと考えながら、俺は靴を脱いで玄関を入り居間に続く扉を開ける。
「ただい……」
 帰宅の挨拶を言いかけて、俺は言葉を止めた。目の前の状況把握を優先したからだ。まず、床に中村沙羅が仰向けに寝転がり、じっと天井を見つめている姿が視界に映った。寝転がった彼女の腹の上には十キロ近い体重の猫のポテトが鎮座しており、その重さのためか彼女の眉間にはしわが寄っている。
「……中村さん、何してるの?」
 少し迷ったのち、俺は素直に尋ねることにした。中村沙羅は黒目がちな瞳を天井に向けたまま、
「瞑想です」
 と短く答える。
「瞑想」
「然様です。わたしは悟りを開きたいので、日々こうして瞑想を繰り返しております。瞑想をすることによって自我を超越し、肉体への執着を捨て、真理へ到達しようと励んでいるのです。ここ数日は引っ越し、入学式、各種手続きなど慣れない作業に追われ、瞑想をすると三秒で眠ってしまうと判断し、しばしお休みしておりましたが、本日から再開致しました。何卒よろしくお願い致します」
 淡々とした口調で彼女は説明する。そういえば、夏乃子さんから中村さんの実家は禅宗のお寺だと聞いた。瞑想とは寝転んで成立するものなのかと疑問に思ったが、無知を露呈して不愉快にさせると申し訳ないので黙っておいた。
「はい……よろしくお願い致します」
 ポテトは中村さんの上で香箱座りをして目を細めている。
「重くない?」
「大変重いです。正直に申し上げますが、瞑想どころではない上に起き上がれず、困っております。助けてください」
 最初から言いなさいよと思いながら、俺は完全にくつろぎモードのポテトを持ち上げて中村さんから下ろす。ポテトは「にゃー」と抵抗の声を上げ、耳を寝かせて俺を睨んだ。怒った様子で居間を出ていく。
 中村さんは体を起こし、立ち上がると「お手間をおかけ致しました」と深く頭を下げた。「いえいえ」と俺も頭を下げる。
 居間は十畳の和室で、共用の日用品が並ぶ棚と、かつて深山荘に住んでいた卒業生が残した教科書類が並ぶ本棚、古いブラウン管テレビ、テーブル、ソファが置かれている。俺と中村さんはどちらともなくソファに座った。
 しばらく沈黙が流れる。何か話しかけなければ、と思った。俺は視線を泳がせながら口を開く。
「……授業明日からだけど、時間割組めそう?」
 俺の問いかけに、彼女は小さく頷いた。
「もしわからないことあったら、聞いてくれたら教えられるから」
「……ありがとうございます」
 さっき瞑想について饒舌に語ってくれたのが嘘のように、中村さんは視線を落としたまま小さく応える。いざ会話をしようとすると身構えるのだろう。その気持ちはよくわかる。俺も同じだ。
 友達はできそうなのか、何か他に困ったことはないか、児玉さんの存在が不愉快ではないかといろいろ聞きたいことはあったが、あまりこちらから踏み込んでも、警戒させてしまうかもしれない。
「まだ、緊張してる?」
 俺はいろいろと言葉を探した末に、それだけ尋ねた。中村さんはこちらを見ることなく頷く。そうだよね、と応えて、俺もそこから二の句が継げなくなった。中村沙羅は少し迷うように視線を泳がせ、顔を上げて俺の方を見る。
 そのとき、ピンポーンと割れるようなチャイムが響く。一拍遅れて「宅急便でーす」という声が聞こえた。俺は「はーい」と応えて玄関へ向かう。少し離れて、俺の後ろを中村さんがついてくるのがわかった。
 受け取った荷物は中村さん宛の大きな段ボールで、伝票には衣類と書かれている。俺はそれを持ち上げた。
「二階まで運ぶよ」
 中村さんは「ありがとうございます」と小さな声で言う。
 古い民家ということもあって、深山荘の階段は非常に急だ。小柄な女の子が重い荷物を持って上がるのは大変だろう。俺はすたすたと荷物を持って上がり、中村さんの部屋の少し手前で下ろした。
「じゃあ、荷ほどき頑張ってね」
 俺は後ろからついてきた彼女を振り返る。部屋の中まで運ぶか迷ったが、それは不躾すぎるような気がしたのだ。深山荘はシェアハウスで、それでなくともプライバシーの守られる場所が少ない。だから、自分の部屋は大切にした方がいいというのが、この一年で俺が感じたことだった。
 中村さんは俺と段ボール箱を見比べて、小さく頷く。
「俺も部屋に戻るから」
「あの、」
 彼女は顔を上げて俺を見た。
「あの、ありがとうございました。あと……ごめんなさい」
 しゅんとした様子で彼女は言う。なぜ彼女が謝ったのかわからず、俺は首を傾げるが、彼女は俺から視線をそらし、段ボール箱を持ち上げてふらふらと自分の部屋に入っていってしまった。

 自室の四畳半の部屋には、ちゃぶ台と勉強机と万年床があり、他のいろいろな雑貨はすべて、部屋の隅の段ボール箱に詰め込まれている。これは俺が去年引っ越してきてからずっと変わらず、荷ほどきが面倒という理由だけで一年間放置されている。俺は、宮本から聞いた話を思い出し、部屋を改めて見渡してみる。児玉さんは幽霊など存在せず、あれはただの噂だと言っていたが、火のないところに煙は立たないのではないかと思ってしまう。
 シンプルな四畳半の部屋に、特に変わったところはない。もしかしたら、畳をはがせばお札がびっしり貼られている、なんてこともあるのかもしれないが、確認するのは大変だし、見た瞬間に赤子のごとく泣いてしまうのでやめておいた。
「気にするな。よし」
 俺は自分に言い聞かせるように独りごちて、ちゃぶ台の上のノートパソコンを開いた。大学のページにアクセスし、時間割を作る。
 教養科目は一年生のときにすべて取り終わり、教員免許などを取る予定もないのでそれなりに余裕のある時間割になった。もし単位数がほしいなら、夏休みに集中講義を受ければ良いだろう。もう一度見直して送信する。パソコンをスリープ状態にして、休憩しようと万年床に寝転んだ。
 その瞬間、急に窓ガラスがガタガタッと音を立てた。
「ヒイ!」
 俺は自分でも驚くほど情けない声を上げて頭を抱える。一瞬本気で怪奇現象ではないかと思ったが、普通に考えれば地震か強風だ。地震速報が流れているかもしれないと思い、俺はスマホに手を伸ばそうとする。
 だが、俺の手は頭を抱えたまま、ぴくりとも動かない。え、と声を上げようとしても、喉の奥で微かに空気が鳴るだけだった。
 本能的に、これはやばいと感じる。金縛りとかいうやつじゃないのか。心臓が早鐘を打つ。視線だけ動かすことができるが、もう目を閉じてしまいたいと思った。何かが見えてしまうのが恐ろしい。
 その意思に反して、眼球は忙しなく動く。天井から吊り下げられた照明が揺れている。キィと小さな音が聞こえた。金属が擦れ合うような音に合わせて、揺れは次第に大きくなり、蛍光灯がピカッと破裂するような光を発すると、そのあと何度か明滅して消えた。キィキィという音は鳴り止まない。
 それは照明から聞こえるのではなく、自分の耳鳴りだと気付くまでにそれほど時間はかからなかった。耳鳴りはディストーションをかけたように歪み始める。ホワイトノイズが重なって、跳ね上がった心音まで大きく聞こえた。
 ふと、視界の端、窓の外に、何かの気配を感じる。
 さっと背筋が凍るのがわかった。見てはならないものだと本能が告げるが、視線は自然にそちらを向く。まず目に映ったのは、白い服だった。幽霊ってやっぱり白い服を着てるんだな、と思う冷静な自分がおかしい。それから、青ざめた顔。肩口で揃えられた黒い髪。そして、じっとこちらを見る、見開かれた瞳。
 その目と視線が合った瞬間、俺ははじかれたように飛び起きた。
「うわああああ!」
 悲鳴が響き、俺は肩で息をしながら、今一度、おそるおそる窓を見た。
 そこには何の姿もなく、ただ、殺風景な部屋と青い顔をした俺の姿が反射しているだけだった。
 ばたばたと階段を駆け上がる音が聞こえ、
「ななくん? すごい声したけど大丈夫?」
 部屋の外から児玉さんの声がした。俺は這うようにして部屋の扉を開ける。そこには、ちょうど帰宅したばかりの児玉さんの姿があった。
「こ、児玉さん、ゆゆゆ幽霊が……」
 児玉さんの顔を見て、震える声で訴える。児玉さんは驚いたように目を見開き、それからとんとんと俺の背中を叩いて、
「大丈夫。ゆっくり深呼吸して」
 と、穏やかな声で言った。俺は彼の言うとおり、深々と息を吸って吐く。少し落ち着いた。
「何があったか、話せる?」
 児玉さんの言葉に、窓ガラスが音を立ててからの一部始終を話して聞かせた。
「……外にいたんだね?」
 俺の話を聞いたあと、児玉さんは何かを考えるような間を取ってから、そう言った。俺は頷く。そして、
「やっぱり幽霊がいるんですか?」
 と、尋ねた。児玉さんは「どうだろうね」と眉を下げる。いないと答えてほしかったが、そう言われたところで俺は信じなかっただろう。
「でも、大丈夫だよ。ななくん」
 児玉さんは俺の目を見る。
「怖いんなら今日は一緒に寝てあげるし、同じ布団でも我慢するから」
「絶対嫌です」
 俺が食い気味に応えると、児玉さんは口を尖らせた。
「優しい先輩が心配してるのにその拒絶はひどくない?」
「お心遣い痛み入ります。ありがとうございました。大丈夫です、マジで」
 俺は丁重にお断りして頭を下げる。そのとき、玄関の扉が開く音がして、
「こんにちはー」
 という夏乃子さんの声が聞こえた。俺はすぐに立ち上がり、部屋を出て、階段を駆け下りて玄関へ向かう。一刻も早く夏乃子さんの顔を見て癒やされたかった。
「夏乃子さん、こんにちは」
 俺の顔を見て、夏乃子さんは目を見開く。
「浩太くん、大丈夫? 顔が青いよ」
 大家さんのお孫さんに、幽霊が出たなんて言えるわけがない。口ごもっていると、彼女は俺の額に手を当てた。やわらかくてあたたかい彼女の手が触れて、体温が一気に上昇するのを感じるが、俺は努めて平静を装い、笑顔を作った。
「大丈夫です」
 夏乃子さんは俺の額から手を離して「無理は駄目よ」と微笑んだ。その笑顔を見ただけで、先ほどまでの恐怖心が嘘のように消える。夏乃子さんの体温の余韻を余すことなく記憶しなければと神経を額に集中させていると、
「ななくん大丈夫? 顔が気持ち悪いよ」
 遅れて下りてきた児玉さんが俺の顔を覗き込んだ。俺は眉間にしわを寄せて彼の方を見る。
「児玉さんよりは気持ち悪くありません」
「俺、顔が良いって評判だけど」
「顔だけは良いの間違いですね」
「夏乃子ちゃんお帰り」
 児玉さんはばっさりと会話の流れを切って夏乃子さんに笑いかける。夏乃子さんは、
「ただいま帰りました」
と言って、くすくす笑った。
「浩太くんと児玉さんは、今日も仲良しですね」
「まったく仲良くありません」と訂正しようとしたが、夏乃子さんの気配を察知したポテトが、にゃんにゃんと高い声を上げて寄ってくるのでタイミングを逃す。夏乃子さんは「ポテちゃんただいまー」と声をかけながら、そのまま台所へ向かった。彼女の後を追おうとすると、
「そういえば、沙羅ちゃんは自分の部屋?」
 児玉さんが問う。俺は頷いた。彼女は自室にいたはずだ。
「さっきの騒ぎで驚かせてしまったかもしれませんね」
 少し不安になって階段を見上げると、
「俺が様子を見てくるよ」
 と児玉さんが言った。その言葉に、俺は思いっきり警戒心をあらわにした表情を作る。
「児玉さんマジであの子に変なことしたら速攻で警察呼びますからね」
 俺の言葉に、児玉さんは心外そうな顔をした。
「なんて人聞きの悪いことを。俺が何をするって言うの」
「一昨日、玄関で小一時間、中村さんのスニーカー眺めてたの知ってますからね」
 俺は彼を睨む。
 児玉さんは大学に八年いる時点で人として少し問題があるが、それ以上に性癖がやばいという点が大問題である。彼は女性から罵倒される、蹴られる、踏まれる、蔑まれるといった行為を受けることを生きる悦びとしているところがあり、かつては若気の至りで「女性限定サンドバッグ屋」を学祭でやったことがあるという話を聞いた。大学からつまみ出されたそうだが、本人曰く「夢のような時間だった」らしい。本当にどうかと思う。彼のパソコンの中にある「そういう類のフォルダ」の「そういう動画」もすべてマニアックがすぎるようなSMものばかりで、見ていると興奮するどころかマジで引く。
 SM嗜好に限らず、児玉さんは女性を性的な目で見すぎるきらいがあるというか、女性の肉体に並々ならぬ執着を見せるというか、平たく言うと変態なのだ。本人は、自分は至って真摯であり紳士であると言うが、後輩の女の子の靴を舐め回すように見る男は変態以外の何ものでもない。
「えっ、ななくん俺が一時間も沙羅ちゃんの靴見てたの何で知ってんの? ストーカー?」
「うるせえ。誰がストーカーですか。とにかく中村さんに変なことしないでくださいね!」
 びしっと指をさして念を押してから、俺は夏乃子さんのいる台所へと向かった。