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深山荘は夕食付きだが、その夕食を作るのは夏乃子さんだ。二年前までは、大家である彼女のおばあさんが料理番をしていたが、去年から彼女が引き継いだそうだ。
味覚が狂っている彼女に料理番が勤まるのか。
それが完璧なのだ。
彼女は自分の味覚がズレていることに自覚があるようで、普段自分ひとりで食べるものはともかく、深山荘で振る舞う夕食はレシピ通りに作る。完全に頭の中にインプットされているものでも、彼女はおばあさんが深山荘に残したレシピ集を必ず開いて、ひとつひとつ丁寧に行程を経るし、わからなければ必ず調べる。自分の勘と想像力で補うことは絶対にしない。
適当な目測と予想で料理をして、失敗した経験のある人は俺だけじゃないだろう。
俺は世間一般の男子大学生がそうであるように、自炊というものを滅多にしない。しないが、昼食のために台所に立つことくらいはある。いつも夕飯の残りがあるわけではないし、児玉さんが俺より先に平らげてしまうことも少なくないからだ。そういうときは大体、卵かけご飯を作る。
俺はいまだに卵かけご飯の醤油の適量というものを知らない。
調べれば出てくるのだろうが、自分の目分量と経験と味覚を過信して、だいたいいつもかけ過ぎる。この前もうっかり大量に醤油を垂らしてしまい、真っ茶色のやばいやつができあがった。さすがにこれは食えない。食事になり得るものに改良できないかと冷蔵庫を開けたら、牛乳が目についた。卵と醤油と牛乳とご飯を合わせれば、ミルクがゆ的な何かができるのでは、と思い立って適当に牛乳で卵かけご飯を煮た。が、ただただ「牛乳で卵とご飯を煮たもの」としか呼べないものができあがり、麦茶で流し込むことになった上に胃薬の世話になった。
たくさんの経験の蓄積がある主婦や料理好きの人ならともかく、ろくに料理もしない俺のような大学生が、自分を過信しても美味い料理などできるはずがないのだ。夏乃子さんは、そんな失敗を絶対にしない。
台所に入ると、夏乃子さんはしゃがんでポテトにちゅーるを食べさせていた。俺は夏乃子さんの隣にしゃがむ。
「美味しそうに食べるよね」
「ほんとに」
ポテトは、ハクハクとどこから鳴っているのかよくわからない音を立てて、夢中でちゅーるを舐める。
ポテトが深山荘で飼われるようになったのは三年前らしい。夏乃子さんのおばあさんが、ホームセンターで売れ残って値下げされているメインクーンの子猫を見つけた。不憫に思ったものの、おじいさんが猫アレルギーなので家では飼えないということを当時の入居者に話したらしい。それに対して、当時も最年長であった児玉さんが、
「ここで飼えばいいじゃないですか」
と提案したのだ。
深山荘の料理番が夏乃子さんに引き継がれたのは、ポテトが夏乃子さんによくなついたからという理由もあるそうだ。そういう意味では非常にありがたい存在である。ポテトという名前をつけたのは他でもない児玉さんで、夏乃子さんのおばあさんがずっとメインクーンとメイクイーンを言い間違えていたからだと彼は言った。そういった経緯があるからか、ポテトは児玉さんにもなついており、夜は彼の部屋で眠ることが多い。
ポテトが寝転んでいる人の上に乗る癖があるのは、児玉さんがいつも腹の上にポテトを乗せて寝ているからだ。「重くないんですか?」と尋ねると「ポテトはメスだから良い」という理解に苦しむ答えが返ってきた。
ちゅーるを食べ終わると、ポテトは礼を言うようにゴロゴロと喉を鳴らして夏乃子さんにすり寄る。
「いい子ね」
夏乃子さんは母親のような口調でポテトを撫で、立ち上がって手を洗った。それから、自分のバッグから割烹着を取り出して袖を通す。リネン生地の割烹着には、ところどころ花の刺繍が施されている。これは、夏乃子さんのおばあさんが作った一点ものだ。
俺は夏乃子さんがどんな服を着ていても似合うし可愛いと思うが、この割烹着姿が一番好きだった。夏乃子さんは、サイドでゆるく纏めていた茶色い髪をきゅっと後ろで結び直し、今一度石鹸をたっぷり使って手を洗う。
「今日のメニューは何ですか?」
そう尋ねると、
「今日は和風グラタンとわらびの煮浸しを作ります」
と、彼女は応える。珍しいメニューだった。夏乃子さんは、テーブルの上の買い物袋から、アスパラガスと長いも、しめじ、玉ねぎ、ベーコン、スナップエンドウを取り出す。
「何か手伝うことあります?」
すかさず口を開く。俺はいつも、夏乃子さんの俺に対する評価を上げたいという一心で、手が空いているときは彼女の手伝いをするように努めている。
だが、今日はそれだけじゃない。中村さんが楽しい夕食の時間を過ごせるように、力になりたいと思ったのだ。夏乃子さんは目を細めて「ありがとう」と言ってから、
「じゃあ、スナップエンドウの筋取りをお願いしようかな」
俺に豆の袋とボウルを手渡した。わかりました、と応えて、俺は椅子に座って四人分のスナップエンドウの筋を淡々と取っていく。目の前には、割烹着姿の夏乃子さんの後ろ姿がある。高いところで結った髪が揺れ、白いうなじが覗くのが眩しかった。彼女は手書きのメモ用紙を二枚取り出して、壁のボードに貼り付ける。
「いつものレシピノートじゃないんですね」
俺の言葉に、夏乃子さんはくるっと振り返って得意げに笑う。
「えへへ、今日は秘密のレシピなんだよね」
「楽しみです。お腹空いてきました」
俺はスナップエンドウを入れたボウルを持って、彼女の隣に並んだ。夏乃子さんはまず、水を張った鍋に塩と小麦粉を入れる。
「小麦粉、何に使うんですか?」
「山菜のアク取りに使うの。これでわらびを茹でたら小麦粉がアクを吸ってくれるんだって。知らなかったな」
夏乃子さんはメモ用紙に書かれた文章に目を通しながらそう言った。
「山菜なんて滅多に食べることないですもんね」
「うん。初物だから、みんなで食べられて嬉しいね」
夏乃子さんは俺の顔を見上げて、本当に嬉しそうに微笑んだ。俺はどぎまぎして「俺もそう思います」と口の中でもごもご言いながら炊飯器の方へ向かう。
俺は炊飯器から釜を取り出し、米びつを開けて三合移した。ポテトはテーブルの下に寝そべって、忙しなく動く俺と夏乃子さんを目で追っている。いつもなら自分の食べられるものはないかと足もとをうろうろするが、今日はちゅーるを食べて満足しているのか大人しい。
俺が米を研いでいる横で、夏乃子さんは茹で上がったわらびを水にさらす。鍋を手早く洗って煮浸しのだしを作ると、しっかりと水にさらしたわらびを入れ、さっと煮て火を消した。彼女は鍋敷きをテーブルに置いて、鍋をそちらに移す。
「あとは冷めるのを待つだけ」
それから彼女は、すぐにグラタンづくりに取りかかる。手早く玉ねぎを四等分にして薄切りにし、アスパラガスを三センチくらいの長さに切る。長芋は角切りに、ウインナーを輪切りにして、ベーコンも食べやすいサイズに切っておく。
俺は炊飯器のスイッチを入れ、再び夏乃子さんの隣に立った。
「何かあったら言ってくださいね」
俺がそう言うと、ありがとう、と夏乃子さんはこちらを見た。しめじの石づきを取りながら、
「ひとつお願いしてもいい?」
俺の顔を覗き込む。台所の窓から差し込む西日が、夏乃子さんの丸い目をきらきらと光らせて綺麗だった。一瞬それに見惚れてから、俺は我に返り「はい!」と必要以上に大きな声を上げる。俺の反応に夏乃子さんは優しく笑って、
「スナップエンドウを塩ゆでしてほしいの。沸騰したお湯で二分くらいかな」
と言った。俺は頷いて、空いている小さな鍋に水を張って湯を沸かす。
その間に、夏乃子さんはフライパンにバターを溶かし、ベーコンを炒め始めた。ぱちぱちとベーコンが跳ねる音が聞こえ、肉の焼ける香ばしい匂いが台所を包む。
「茹で上がりましたよ」
「ありがとう」
茹で上がったスナップエンドウを調理台に置くと、夏乃子さんは本当に助かったというように、お礼を言った。彼女はどんな小さな手伝いであっても、必ずしっかり目を見て「ありがとう」と言ってくれる。彼女の好きなところのひとつだった。
夏乃子さんは買い物袋の中からピンク色の蓋の小さなタッパーを取り出す。中には白味噌が入っているようだ。市販のものよりも少し色が濃く、大豆の粒が見える。彼女は牛乳に和風だしと味噌を溶かし、綺麗に洗ったフライパンに再びバターを熱した。小麦粉を加えてルーを作る。小麦粉とバターがなめらかに混ざり合ったところで、牛乳と味噌を合わせたものをゆっくりと加える。
「ホワイトソースのグラタンも美味しいけど、味噌がベースのグラタンは白いご飯が食べやすい――って、よく聞くよね」
夏乃子さんが言う。確かに、グラタンのときは別のつけ合わせと一緒にご飯を食べることが多いが、味噌ベースなら白米とも相性が良さそうだ。彼女は耐熱容器に具材を移し、上からソースとチーズをたっぷりかける。さらにパン粉をまぶして、四人分のグラタンが一気に焼き上がる大きなオーブンに容器を並べた。
「そういえば、児玉さんと中村さん下りてきませんね」
「そうねえ」
俺は天井の方に視線を移す。児玉さんが中村さんにちょっかいをかけていないかと、俺は眉をひそめた。そのとき、とんとんと階段を軽快に下りてくる足音が聞こえ、ひょこっと中村さんが顔を出した。
「夏乃子さん。こんにちは」
中村さんは、夏乃子さんに挨拶をする。夏乃子さんは中村さんに笑いかけた。
「もうすぐご飯ができるからね」
中村さんは恥ずかしそうに視線を落としながら、それでも「楽しみです」と小さな声で言った。
台所に人が増えたので、ポテトが「うにゃーん」と言いながらテーブルの下から出てきて伸びをする。もうすぐ夕食なのを知っているのだ。
メインクーンという品種は、大きな体格の割に性格が非常に優しく、仲間と一緒にご飯を食べるのが好きなのだと、前にネットの記事で読んだことがある。ポテトはおそらく、幸せなのだろう。ここは人の入れ替わりの激しい場所だが、常に誰かが食卓にいる。それに猫は、人よりも家につく生きものだ。
「やあ、ポテト」
児玉さんが現れると、ポテトは一層甘えた声で鳴いてすり寄った。そのうち、オーブンがピーと音を立てて、グラタンの完成を伝えてくれる。
「夕食にしましょう」
夏乃子さんが手を叩いてそう言った。
食卓に麦茶の入ったグラス、炊きたてのご飯とグラタン、そして山菜のおひたしを並べて、俺たちは銘々席に着く。
「それでは、いただきます」
夏乃子さんが手を合わせるのに続いて、「いただきます」と言った。俺はまず、山菜の煮浸しに箸を伸ばす。口に運ぶと、山菜の新鮮な香りと風味豊かな出汁の香りが広がった。わらびには少し粘り気があり、醤油をベースにした上品な味付けがしっかりと染みていて、独特の苦みもほどよいアクセントになっている。やわらかな歯ごたえも、普段食べる野菜にはないものだ。
「山菜の煮浸しっておいしいよね」
児玉さんが言った。
「山菜好きなんですか?」
「好きだよ。昔は春先によく食べてた」
児玉さんは懐かしむような口調で言う。へえ、と俺は頷いてから、メインのグラタンを食べるために箸をフォークに持ち替えた。
こんがりと焼けたグラタンの真ん中にフォークを入れると、ぱりぱりと表面のパン粉が割れる。中からは味噌と牛乳をベースにしたソースがじゅっとあふれ出て、中から湯気が上がった。表面のパン粉とチーズを混ぜてから、たっぷりの具と一緒にフォークで掬って口に運んだ。さくっとしたパン粉の食感と、かりかりに焼けたチーズの香ばしさが口に広がる。ソースは熱々で、味噌の甘みとコクが存分に引き立っていた。
なめらかなルーの中には、しゃきしゃきとしたスナップエンドウと、甘い玉ねぎ、ぷりぷりのしめじと、塩味の利いたベーコンが包まれる。ひとつひとつの食感と香りを楽しみながら、俺は白飯を一緒に食べる。味噌のまろやかな旨味が白米によく合った。
「美味しい」
とため息交じりに言うと、夏乃子さんが「良かった」と嬉しそうに笑う。俺は、向かいの席に座る中村さんの様子を窺った。彼女は表情を変えず、淡々とグラタンを食べている。
「沙羅ちゃん、美味しくできてる?」
夏乃子さんが問いかける。中村さんはその言葉に顔を上げ、じっと隣の夏乃子さんの顔を見てから、ゆっくりと頷いた。もう一度グラタンを掬ったフォークを口に運ぶ。薄い唇を閉じて、味わうように咀嚼する。夏乃子さんは、穏やかな表情でその様子を見ている。中村さんは再び、夏乃子さんの顔を見上げた。
表情は変わらない。しかし、その目はみるみるうちに潤み、涙が零れ落ちた。
「さ、沙羅ちゃん?」
急に泣き出した中村さんを見て、俺も児玉さんも目を見開いた。夏乃子さんがうろたえたように立ち上がり、ティッシュの箱を取って中村さんに差し出す。まるで涙腺が壊れてしまったかのように、彼女の目からは、後から後から大粒の涙が溢れる。
「どうしたの? 大丈夫?」
心配そうに夏乃子さんは言って、中村さんの顔を覗き込んだ。中村さんは、一度フォークを置くと、ティッシュで目元を拭いて、
「お母さんの、」
と、震える声で言った。
「お母さんの、作るグラタンと、おんなじ味で」
お母さん、という言葉を口にした瞬間、また堰を切ったように彼女の目からぼろぼろと涙の粒が落ちる。夏乃子さんは頷きながら、あやすように中村さんの背中を叩いた。
「今日のレシピね、沙羅ちゃんのお母さんに送ってもらったの」
俺は、夏乃子さんが秘密のレシピだと言っていたメモのことを思い出す。
「沙羅ちゃんの寂しい気持ちとか、不安がちょっとでもなくなったら良いなと思って、お母さんに沙羅ちゃんの好きな料理の作り方を教えてくださいって連絡したの。そしたらね、グラタンのレシピと、お母さんがおうちで作っているお味噌を送ってくださって。山菜はね、わたしの連絡を聞いて、沙羅ちゃんのお父さんが山で採ってきてくださったんですって」
中村さんは、目を丸くして夏乃子さんの話を聞いていた。夏乃子さんは続ける。
「お母さんね、わたしにすごく丁寧なお手紙をくださってたの。最後の方にね『いつも上機嫌で夕飯を食べる娘の姿が食卓からなくなって、私も少し寂しさを感じていました。でも、自分のレシピで作られた夕食を、あの子が食べているのだと思うと元気になります』って書いてあったよ」
ようやく止まりかけていた涙が、また一気に溢れてくる。中村さんは泣きじゃくりながら、震える唇を開く。
「わたし、わたし、特別にグラタンが好きなわけじゃなかったんです。でも、お母さん、何かあったときは絶対にグラタンを作ってくれてました。たぶん、わたしが小学生のころに授業参観でお母さんの味噌とグラタンの話をしたのをずっと覚えてたんです。だから、わたしはこれが好きなんだって、思ってて……だから、いつも……嬉しいときも、悲しいときも、いつも……」
うん、と夏乃子さんは中村さんの背中を撫でながら相槌を打つ。
「山菜の煮浸しも、お父さんとお兄ちゃんが採りに行くのにくっついていって、その日の夜は絶対にこの味を食べてました。わたしにはまだこの味はわかんないだろうってお父さんが笑うから、わかるもんって言って、本当は苦かったけど、でも……お父さんたちと山菜採りに行くのが楽しかったから……」
いつも、全部食べてたんです。そう言って、中村さんはまた涙を拭く。話しているうちに、大分落ち着いてきたのだろう。彼女はひとつ大きく息をつき、
「そんなこと、全部思い出しちゃって。わたし、自分が思ってたよりずっと、おうちが好きだったんだなって、思って」
鼻をすすって、中村さんは夏乃子さんの顔を見た。
「美味しいです」
真っ赤になった目で、中村さんは言う。
「本当に美味しい」
もう一度、噛みしめるようにそう言って、中村さんはにこっと笑ってみせた。
「沙羅ちゃん、はじめておうちを離れて寂しいよね。それはね、全部解決してあげられないかもしれない。でもね、ここにはわたしもいるし、児玉さんも、浩太くんもいるからね。もうひとつのおうちだと思って、楽しく過ごしてほしいなって、思うんだ。わたしたちそのためなら、何でも力になるからね」
夏乃子さんは、児玉さんと俺の顔を見る。
「そうだよ。俺は丸七年も住んでるからね。何でも言いなさい」
児玉さんは得意げに言う。俺は緊張の糸が切れた気分になって笑った。
「絶対こうなってはいけないという見本ですよね」
「ななくん何でそういうこと言うの!?」
俺と児玉さんのやりとりを見て、中村さんと夏乃子さんは声を上げて笑う。中村さんの楽しそうな表情を見て、俺は胸をなで下ろした。
「これから、よろしくね」
そう言う。中村さんは、夏乃子さんと児玉さんと俺を順番に見てから、
「ふつつか者ですが、改めてよろしくお願い致します」
と小さく頭を下げて、それから人なつっこい笑みを浮かべた。
「にゃーん」
ポテトが存在をアピールするように夏乃子さんと中村さんの後ろをうろうろ歩き回る。
「あら、ごめんね。忘れていたわけじゃないのよ」
夏乃子さんがポテトの頭を撫でる。中村さんは「ポテトちゃん、あんまりお腹に乗らないでね」と笑った。
「お食事を中断してすみません。食べましょう」
俺たちの方に向き直り、中村さんが言う。俺は頷いて、少し冷めたグラタンに再びフォークを伸ばした。俺は、中村さんに慈しむような視線を向ける夏乃子さんを見て、去年のことを思い出していた。
俺が深山荘に引っ越してきたときも、彼女は俺の母親に俺の好物を聞いてくれていた。最初のころは、そのメニューを優先的に作ってくれていたのをよく覚えている。俺はカレーに目玉焼きを載せて食べるのがやたら好きで、それが最初に食卓に並んだときに、完全に夏乃子さんに射貫かれてしまったのだ。
不安も、わずかな寂しさも、全部察してくれていたことが嬉しかった。それを少しでも和らげようと、俺の好きなものを食卓に並べてくれたことが嬉しかった。「美味しい?」と聞いてくれる声が優しかったことが印象的だった。なんて綺麗な笑顔なんだろうと、そのとき思ったのだ。
夏乃子さんは、決まりごとのようにそうしているのかもしれない。けれど、単なる行事じゃなくて、俺のことも中村さんのことも考えて台所に立ってくれている。そんな彼女の細やかな気遣いと、美味しい料理が、どれだけ救いになったかわからない。
全員のお皿が空になったところで、児玉さんがサプライズで準備していたケーキを取り出し、切り分けてデザートにした。児玉さんは駄目な人だが、こういう気の利いたことをする。子どものように喜ぶ中村さんを見ながら、「俺にもお金出させてください」と小声で言うと、児玉さんは、
「いいよ。ななくんは別になんかしてやりな」
そう応えて、涼しい顔で笑った。