破滅の刑死者 内閣情報調査室「特務捜査」部門CIRO-S

邂逅と逡巡

 音がする
 重く、静かな音がする
 誰の耳にも届かぬままに、車輪は大きく回り出す

 そう、それは
 世界が変わる音だった

  ***

 シルバーのスカイラインをコインパーキングへと停め、雙ヶ岡珠子(ならびがおかたまこ)は溜息を吐いた。
 若い女だった。年は二十過ぎだろうか。きっちりと整えられた暗めの髪に、同じく暗めのスーツ。横顔にはあどけなさが残っているが、それ以上に生真面目さが滲み出ている。整った顔立ちの中で目立つのは、その澄んだ瞳。
 そんな彼女の両目は今、少しばかり、潤んでいた。
「大丈夫、大丈夫……」
 ショルダーホルスターに収納された自動拳銃・USPコンパクトに触れ、万が一の事態が起こったとしても武器があるから大丈夫だと心を落ち着けようとする。が、自らが武装しているという事実を再認識してしまい、手が震え出す。完全に裏目に出た形だった。
 助手席の鞄の中からお気に入りのスナックバーを取り出し、齧りながら車外へと出る。駐車場に設置されている自販機でコーヒーを買い、車にもたれかかりながら一口飲むと、僅かながら動悸がマシになった。これならば完全に平静とはいかずとも、繕うことはできるだろう。そう考えるとまた多少、安心できた。
 夕陽に照らされるベッドタウンを眺めながら、暫しの一服。
 腕時計に目を遣る。午後六時前。マルタイ――対象は自宅にいるはずの時間。
 上司の言葉を反芻する。「身の危険を感じた場合はすぐに撤退し、こちらの指示を仰ぐこと」。「対象の経歴は至って平凡だが、くれぐれも用心するように」。そして、「戦闘になったとしても負ける相手ではないが、万が一を考慮すること」……。
「……よし、行こう」
 ブレイクタイムを終え、珠子は歩き出す。
 思えば簡単な任務だ。「事件の関係者に会って話を聞く」という、ただそれだけ。警察の人間、特に捜査一課の刑事ならば毎日のように行っていることだ。何も緊張することはない。自身に言い聞かせながら、人もまばらな街を行き、角を曲がる。眼前に見えてきた二階建ての建物が目的地だ。正確には、二階の一番奥の部屋が。
 『エスポワール』。フランス語で希望を表す名を付けられた建築物は、何の変哲もない、ごくごく平凡な学生向けのアパートだった。門を潜り、階段を上がって二階へ向かう。
「もー、なんでトウヤはそうなのよ! 折角作ったのに!」
「だから、ありがとうって言ってるじゃん。ただ煮物は嫌いだってだけでさあ」
「最初から『ありがとう』ってどうして言えないのよ!」
 一旦、珠子は足を止める。
 聞こえてくるのは痴話喧嘩のようなやり取り。女の方は言葉でこそ非難しているが、口調はそう怒っている風でもない。男の方も分かっているらしく、「はいはい」「ごめんごめん」と適当な調子で流している。
 ……こっちの気も知らずに、呑気なものだ。
 もう一度溜息を吐き、やり取りが終わった頃を見計らって珠子は部屋へと歩き出した。

     *

 味噌の匂いが残る廊下に立ち、珠子はインターホンを押した。七月の夕陽は背中が焼けるのではないかと思うほどに熱い。上着を脱ぎたくなるが、状況が状況だけに堪える。脇の下に吊られた拳銃を見られると名乗る前に警察を呼ばれる恐れがある。それは避けたかった。
 はーい、という返事から十数秒後、扉が開いた。
「ごめんなさい、待たせちゃって。ちょっと鍋が……。まあとにかく、色々あって」
「いえ……」
「で、お姉さん、どちら様ですか?」
 名刺を取り出し、手渡す。相手がその文字に目を通している間に、珠子はそれとなく少年を観察してみる。
 痩身長躯。顔立ちは端整な部類だ。だが、その横顔も目を隠すほど長い前髪で台無しになっていた。加えて、その陰気な髪型と反比例するかのように口調は軽い。外交的なのか内向的なのか、ポジティブなのかネガティブなのか、はたまた肉食系なのか草食系なのか、よく分からない少年だった。小さなキズが窺えることや左手の小指の付け根に絆創膏が巻かれていることから察するに、案外と武闘派なのかもしれない。
 そして、何よりも目立つのは、垂れ下がった髪の向こうにある、不思議な光を宿した目。何処か歪さを感じさせる両の瞳。
 名は戻橋トウヤ(もどりばしとうや)。三流私立大学に通う大学生。今年で二十歳になる。両親は中学生の頃に交通事故で死亡しており、以降は父方の祖母に育てられる……。
 事前に得ていた情報を整理していると、トウヤが口を開く。
「『内閣情報調査室 特務捜査部門』……」
「説明させて頂きますと、内閣情報調査室というのは、」
「その前にさ、お姉さんのこの名前、なんて読むの? 上も下もどう読むか分かんないんだけど」
 ああ、と納得しつつ、応じる。
「苗字は『ナラビガオカ』です。一般的には双子のフタに、一ヶ月のガ、岡山のオカと書いて『双ヶ岡』と読むことが多いそうですが、こういう漢字もあります。下の名前は『タマコ』です」
「へー、面白い名前だね。タマちゃんって呼んでいい?」
「やめてください」
 一歳違いとはいえ、どうして年下の、しかも初対面の相手にちゃん付けで呼ばれなければならないのか。少年の軽薄さと慣れなれしさに緊張感や警戒心といったものが薄れ始め、今度は「なんだコイツは」という苛立ちが珠子の心に広がっていく。
「ところでさー、タマちゃん」
「ですから、そう呼ぶのはやめてください」
 苛立ち、不快感。そういった気持ちが先行するということは、つまり、「警戒心が薄れた」ということだ。つい数十秒前まではあったはずの緊張感がなくなり、珠子は近所の生意気な子どもと話しているような気分になってしまっていた。
 そんな彼女の心に踏み込み、斬り付けるように。
 否、実際に一歩踏み出し距離を詰め、珠子の影を踏み付けるようにしながら、少年は笑って言った。
「―――僕に危害を加えようとする気があったり、凶器を持ってたり、しないよね?」
 どくり、と大きく心臓が跳ねる。背筋が凍り、失われていた緊張感が一気に戻ってくる。
 声音を整え、珠子は応じた。
「そんなことは、ありませんよ。ただ少し、お話を伺おうと……」
「言ったね? タマちゃん」
 少年は笑う。
 何故か異質で、何処か空虚さを感じさせる笑みだった。珠子の両腕が小刻みに震え出す。落ち着け、大丈夫だ。自らにそう言い聞かせるも震えは止まらない。眼前の少年が醸し出す異様な雰囲気のせいか、まるで、身体は自らのものではないかのようで。
 これは、武者震いだ。怖気付いたわけじゃない。
 そう考える。そう思うしかなかった。恐怖や絶望は、それを抱いた瞬間に現実へと変貌し、人間を呑み込んでいくのだから。
「僕は暴力が嫌いだからさ。本当に何もしないなら、それでいいんだけどね」
「……私も、暴力沙汰はあまり、好きではありません」
「あ、そうなの? それなら良かった」
 そう言って、先ほどとは異なる、屈託のない笑みを見せる。
「そもそもとして、暴力が好きな人間など、そうそういないでしょう」
「それはどうだろうね。人類の歴史は戦争の歴史だー、って主張もあるし。殺し合い、奪い合いのが人間の本質かもしれないしさ」
「だとしても、本能のままに行動するのでは獣と変わりません。欲望を抑え、善いことをしようとするのが人間として正しい在り方のはずです。理性や善性といったものは飾りではないでしょう」
 知らない人間の玄関先で、一体、何の話をしているのだか……。
 珠子は宗教の勧誘に訪れたわけでも、況してや哲学の講義に来たわけでもない。目的を果たす為にここに立っているのだ。組織の目的の為に。同時にある意味では、この少年を助ける為に。
 状況を客観視できたせいだろうか。震顫はいつの間にやら収まっていた。
「タマちゃんがそういう人なら助かる限りだよね。何せ僕、滅茶苦茶虚弱体質っていうか、体力ないから。五十メートル十秒切れないくらいだし」
「その呼び方はやめてください。というよりも、あなた、百メートルではなく、五十メートルが十秒切れないんですか?」
「百メートルを十秒切れたら日本代表になれるでしょ」
「それはそうですが……。あまりにも遅過ぎませんか?」
「だから、運動が苦手なんだって。そういうこともあって、暴力が嫌いなんだけど。あ、腕相撲でもしてみる? 間違いなく負けられる自信があるよ」
 引き締まっている、というよりも、単に華奢な二の腕を見せつけつつの申し出には、「どういう自信ですか、それは」との言葉を返しておく。
 まあとにかく、と珠子に背を向け、廊下の奥へと進みながら少年は言った。
「とりあえず上がってよ、タマちゃん。狭くて汚い部屋だけどさ。内閣情報調査室が何してるトコなのか僕は寡聞にして知らないけど、連絡もなしに来るんだから、それなりに大事な用なんでしょ?」
 軽く、明るく、然れども、虚ろで狂った調子で。
 その少年は名を名乗る。
「あ、言い忘れてたけど、僕の名前は戻橋トウヤ。よろしくね、タマちゃん」
「……ですから、その呼び名はやめてください」
 すっかり少年――戻橋トウヤのペースに呑まれた珠子は、既に幾度となく述べた言葉を口にし、また溜息を吐いた。


 「狭くて汚い部屋」という表現は謙遜でも何でもなかったようで、実際に戻橋トウヤの部屋は狭く、そして汚かった。整理整頓が下手な部類なのだろう。雑多な書籍が本棚から溢れ、勉強机の周りや部屋の隅に積まれている。
 一言で言えば、本好きな大学生の部屋。変わったことと言えば妙に間接照明のようなライト類が多いくらいだが、そういう趣味なのかもしれない。
「ま、座ってよ」
 小さな敷物の上にあるのは、同じく小ぶりなテーブル。その片側にトウヤは座り、促されるがままに珠子も腰を下ろした。
「お茶とかいる?」
「いえ、お構いなく」
「じゃあ、用件を聞こうかな。スーツが似合う、かっちょいいお姉さんが、僕の家に何しにやって来たのか」
 長い前髪の奥にある瞳から読み取れるのは好奇心。常人ならば役所の人間が部屋に来た時点で身構えてしまうものだ。だというのに、目の前の少年は平然としている。
 相当な手練れか、それとも相当な馬鹿か。どちらか判別できないままに、珠子は口を開く。
「まず、私の素性から説明しましょう。私は内閣情報調査室特務捜査部門所属、秘密捜査官――ケースオフィサーの雙ヶ岡珠子。内閣情報調査室、通称CIROは内閣官房の情報機関であり、内閣の政策立案の為に国内外の政治や経済の情報を集めている機関です。日本版CIAとも呼ばれますが、表向きはCIAほどの権限はなく、対テロなどの情報収集は公安警察が行っています」
「……表向きは?」
「はい。表向きは、です」
 一拍置いて、珠子は続ける。
「特務捜査部門はCIROの中でも特殊で、内閣、ないしは現政権に対するテロ活動抑止を任務としている部門です。要するに謀殺や革命を防ぐ為に存在しています」
「かっこいー、漫画の秘密部隊みたい」
「ただ、そちらも『表向きは』という枕詞が付きます。私達、特務捜査部門CIRO-S(サイロス)の実態は、完全に秘匿されています。書類上はCIROに雙ヶ岡珠子の籍は存在しません。私の所属する特務捜査部門は存在していないことになっている。私や、私の同僚に関することを問い合わせても誰も答えないはずです。多くの人間は知らず、知っている者は口を閉ざしますから」
 その瞬間、トウヤの目の色が僅かに変化する。好奇心一色から、やや真剣みを帯びたものへと変わった。その瞳は深く黒い光を宿していた。
 無言で以て促され、説明を再開する。
「そういったわけなので、私がここに来たことは誰にも話さないでください。当然、今まで聞いた内容、今から聞く事柄もです」
「もし誰かに言ったら?」
 黒の瞳を輝かせ、試すようにトウヤが問う。私が困ります、と応じると、「じゃあ言うわけにはいかないね」と笑い、目を細めた。可愛らしい笑みだった。
 分からない、と思う。
 幼子のような屈託のない表情を見せたかと思えば、何処までも虚ろな人外の如き微笑を浮かべてみたりもする。いい加減に対応しているようでいて、その実、妖しい光を宿した両目は珠子から片時も視線を外さない。両極端な二つを行き来する様は、綱渡りのような不安定さを思わせる。
 得体が、知れない。
 黙っていれば、少しばかり陰気な風の、端整な学生だ。しかし、妖怪も化物も、見てくれは美しいモノが多いと伝わる。
 彼は一体どちらなのだろう?
 ただの少年か、それとも、尋常ならざる化生か。
「まあ、大体は分かったよ。で? じゃあ、そんなスパイ映画に出てくるような組織に所属するタマちゃんは、何しに来たの?」
「……その呼び方はやめてください」
 あまりにも率直に疑問を口にした少年にやや面食らいながら、珠子は考える。嘘は、吐いていない……か? 本当に何も知らないのか? 目の前の相手の様子を目敏く観察し、危険性がないことを確認し、尚且つ警戒しつつ、問いに答えた。
「……三日前の夜、戻橋さんは何をしていらっしゃいましたか?」
「三日前? えーっと……。ああ、怖い人達とゲームしてたよ」
「ゲーム?」
「そう。大学の友達がさー、闇金から借金してて……。いや、借金したのは友達の親なんだけど、両親が死んじゃって、代わりに返済しないといけなくなったんだよね。で、かわいそうだなーって思ったから、その友達の代理で怖いおじさん達と交渉しに行った。『勝負して僕が勝ったら借金チャラにして』って」
「ちょ、ちょっと待ってください」
 思わず珠子は制止の言葉を紡いでいた。
「借金をしたのはあなたの両親では?」
「違うよー、借金したのは友達の親。僕の家はそこそこ裕福だよ。凄そうな機関の割には情報の精度は低いんだね」
「えっと……。要するに、あなたは親の借金を代わりに背負うことになった友達の、更に代わりに交渉に赴いた、と……?」
「そうだって最初から言ってるじゃん」
「……なんの為に?」
 雙ヶ岡珠子は理解ができなかった。
「親の借金を子どもが代わりに払う」――これは、まだ分かる。相続を放棄してしまえば返済義務はなくなるのだが、そういった知識がない人間も多い。加えて、相手は闇金だ。知識があったところで専門家が間に入らなければ話は纏まらないだろう。
 故に、珠子には分からない。
 そのような専門の人間が解決すべき、しかも、他人の問題を、何故解決しようとしたのだろうか?と。どうして単身で相手の陣地に乗り込むような馬鹿な真似を?と。
 情報に誤りがあったのも頷ける。常識では考えられない内容だからだ。
 だが、トウヤは変わらず軽い調子で言った。
「だからさ、言ったじゃん? かわいそうだなー、って思ったんだよ。借金返すことになったら大学やめて働かないといけなくなるし、遊べなくなるしさー。金が全て、って人も世の中にはいるけど、僕に言わせれば、そんなのは戯れ言だよ。お金がなければ生きていけないけど、お金があったからって、その人の価値や本質が変わるわけじゃない。それに、ほら……。友達は大事だしね」
「あなた……。頭がおかしいんですか?」
「うん。よく言われる」
 友情や義侠心に厚い性格で、友の窮地を見ていられず、思わず身体が動いた。世の中にはそういった人間もいるだろう。
 が、こと戻橋トウヤに関してはそれはありえないと断言できた。出会って数分だが、この少年はそういうタイプではないと予想する。「友達は大事」という発言も、何処までが本心なのか怪しいものだ。
 そして、次の言葉で予想は確信へと変わる。
「でもほら、ヤクザと交渉とか……面白そうだったし?」
 決まりだ、と珠子は確信する。コイツは確実に狂っている。頭の螺子が一本どころではなく外れている。罷り間違っても、ただの少年では、ない。
 そんな人間と会話を続けなければならないことに頭を痛めつつ、珠子は話を戻す。
「……ま、まあ、あなた個人のポリシーや考え方は置いておきましょう。こちらとしては要するに、あなたがあの晩、篤実ファイナンス本社ビル周辺で目撃されている少年であるということの確認が取りたかっただけなので……」
「で? その日、その時間に僕がそのビルにいたとして、タマちゃんは何が知りたいの?」
「その呼び方はやめてください。……ここまで聞いて、心当たりがありませんか?」
 どうだろーなー、と伸びをしながら答え、次いで少年はあまりにもあっさりとこう続けた。
「心当たりがあり過ぎるっていう感じ? あの時間、あのビルにいた人間は僕以外全員死んじゃったみたいだけど、それ以外にも色々あったし、ねえ? そのせいで、こっちからするとタマちゃんが何を知りたいのか全然分からないんだ」
 三日前の夜。
 郊外の商社ビルで起こった謎の銃撃事件の結果、暴力団関係者の男数名が死亡し、ビルそのものも半焼した。
 そしてその事件の直後、近辺で目撃されたのが、この戻橋トウヤという少年だった。

     *

 時系列は三日前に遡る―――。
 戻橋トウヤは視線を落とし、考えていた。目の前には十四個の麻雀牌。その先には全自動卓が作り出した牌の山がある。長い前髪をワックスで撫で上げ固定したお陰で、視界は極めて良好。他家(ターチャ)――対面と両サイドに座る男達の表情もよく見えた。
 点数は拮抗している。手も悪くなく、しかも親番だ。勝負に行くのは確定として、方向性をどうするか。役牌を用いての早上がりで親の続行を狙うか、鳴かずに高めの手を狙いつつ、危なくなればすぐオリるか。それが問題だった。
 何の変哲もない、ただの麻雀だった。
 ……数百万という法外な金銭が賭けられていること、そして、相手が暴力団であることを除けば、だが。
「にしてもお兄ちゃん、麻雀、打てるんだな。一昔前ならいさ知らず、今時の学生は飲むことも打つことも買うこともしないって聞いてたが」
「僕は大麻も覚醒剤もPTSDもしないよ?」
「マリファナやシャブのことじゃねぇよ。昔の男は、酒を飲む・博打を打つ・女を買うが嗜みだった、って話だ。あと、それを言うならPTSDじゃなくMDMAな。PTSDは心的外傷後なんたらって病気だろ」
「そうそう、それそれ」
 雀卓を挟んだ向こう側にいる男は、煙草を燻らせ、おかしそうに笑う。口調も砕け、すっかりリラックスした風だ。
「……で、何の話だっけ?」
「麻雀の話だよ。最近のガキで、麻雀を打てる奴は珍しいな、って言ったんだ」
「そうかなあ。そうでもないと思うけど。僕の周りだと、麻雀漫画を読んでる奴も多いし、僕もほら……あ、度忘れしちゃった。なんだっけ、『徹夜で麻雀して疲れた』みたいなペンネームの有名な作家、いるでしょ? あの人の作品、好きだしさ」
 答えながらも、何次団体かも分からない街のヤクザの癖にやるなこの人、とトウヤは感心していた。
 心理戦は得意な部類だ。少なくとも暴力をチラつかせることしか脳がないそこらの闇金の人間よりは秀でているつもりだった。が、思ったよりも勝てないのだ。運が悪いことは自覚していたものの、ここまでとは思わなかった。
 あるいは、と思案する。イカサマでもされているかな?と。
 左右に座る人間は正面の男の部下だ。勝負にあたって新たに呼ばれた人間、つまり、その手のことに秀でた人員なのだろう。実質的には三対一。麻雀というゲームの性質上、三人でグルになれば、残る一人を沈めることは容易い。
「一応訊いておきたいんだけどさ」
「なんだい?」
「イカサマとか……してないよね?」
「そんなチャチな真似をしなくても青二才には勝てるさ」
「言ったね?」
 集中したいトウヤの心情など知らぬように、周囲は騒がしくなってきていた。部屋にいる人間の中で一番格下らしい男が誰かに呼ばれたらしく一旦部屋を出、かと思えば、すぐに戻ってきた。どうやら一階のロビーに客人らしい。
 一言断りを入れてから、
「……下に、金髪の男が。『伯楽翁のファイルについて話がある』と」
 と、中年の男に伝えた。男は全く取り合わず、愉しい勝負を邪魔するなと言わんばかりに「追い返せ」と応じた。が、すぐに思い直したらしく、別の二人に指示を出し、一階に行かせる。卓に着いていた部下二人が、それぞれに「自分達も行きましょうか?」という意味を込めた視線を送る。男は首を振り、無言でその申し出を却下した。
 ……上部団体の人間が来たのか? でも、それにしては対応が雑というか、不穏というか……。
 考えるトウヤに対し、中年の男は客人(カモ)に向ける為の笑みを湛え、言った。
「いやあ、悪いね。バタバタしてて」
「こっちこそ、急に押し掛けた形だし、お相子って感じで。仕事柄忙しいのは仕方ないでしょ? 不景気でお金が必要な人多いし、ここには貴重な物も沢山あるみたいだしさ」
 部屋の左隅に鎮座する小型金庫。その中に目当ての物――借用証書や債権譲渡通知書の原本が収納されていることは事前に確認していた。「お兄ちゃんが勝てばこれをやる、代わりに負ければ同じ書類をお兄ちゃんにも書いてもらう」とは男の言だ。
 問題は、トウヤが見た書類が本当に原本かどうかなのかだけれど、これに関しては相手を信じるより他にない。違法で無効な証書を書かせてくるような人種を信じるのは酷く難しいことではあるが。
「さあ、勝負を続けるか」
 と、男が言った瞬間だった。
 階下で何かが壊れ、倒れる音がした。次いで、パンパンパン、と乾いた音が連続する。くぐもっているが、それは紛れもなく銃声だ。怒号、破裂音、悲鳴といった風に明らかに尋常ならざる事態を思わせる音が昭和生まれのビルに木霊する。
 中年の男の顔色が変わり、残っていた腹心らしき男と顔を見合わせる。「勝負は一旦お預けだ」と告げ、事務机の中から回転式拳銃を持ってこさせる。
 そんな男へと、トウヤはいつもの調子で。
 つまりは、場違いなほど軽い声音で問い掛けた。
「あのー、お急ぎのところ申し訳ないんですけど、トイレって廊下の奥ですっけ?」
「隠れとくつもりか? なら、それがいい。正直、俺にも何が起こったか分からないが、ここにいるよりは安全だろうよ」
 親切にもそう助言した後、中年の男は腹心を従え部屋を出ていく。
「何者だ」「城山組のもんか」「まさか、『フォウォレ』かお前」「ファイルはここにはない、残念だったな」――意味の分からない言葉と怒鳴り声、罵り合いが半開きのドアの向こうから聞こえてくる。丁々発止のやり取りは多分、口先だけではない。
 物騒な言葉と物音を慎重に聞き取りつつもトウヤは迷いなく歩を進め、金庫の前に辿り着く。記憶力は良い方だ。テンキーの暗証番号は覚えている。八桁のパスワードを突破して扉を開けた。雑多な書類の束を確認し、肩掛け鞄の中に突っ込む。
 気付けば、怒号も銃声も収まっていた。
 耳を澄ます。とん、とん、とん、という規則正しく階段を上る音が鼓膜を揺らす。
 どうやら、あの男達は全員始末されてしまったらしい。事情は分からないが、急に静まり返ったビルと一人分の足音からそう考えたトウヤは、とにかくこの場から避難することにする。
 ……確か、『金髪の男が』って言ってたよね。
 男達が、と表現しなかったことから察するに、襲撃者は一人。
 ならば戻橋トウヤが選ぶ選択肢は一つ。
「まあ、死なないでしょ。多分」
 そして。
 トウヤは何ら躊躇いなく、三階の窓から飛び降りた―――。

     *

 これで僕の話は終わり、と戻橋トウヤは告げた。
「羽織っていたジャケットを手に巻いて、外壁の配管を掴みながら飛び降りた。ラッキーなことに下に車が停まってたから、それが申し訳程度のクッションになったらしくて、この通り無傷。着地の瞬間は膝や股関節滅茶苦茶痛かったけど」
「あなたという人は……」
 呆れて珠子は溜息を吐くが、少年の何故か異質で、何処か空虚な笑みは消えることはない。「清々しく狂っている」とでも言えばいいのか。最早、言葉も出なかった。
 戻橋トウヤの一つひとつの行動は妥当と言えるものかもしれない。むしろ、そんな局面でちゃっかりと証書類を拝借したことは称賛にすら価する。けれど、真っ当な人間としては完全な落第、零点に近い行動だった。
 銃声を聞いても動じることなく、今し方話していた人間が死んだらしいと分かっても冷静に思考を巡らせ、自らも危機的な状況の中にいることを認識し、当初の目的を果たした上で、その場から姿を消した。
 アクション映画ならば満点だが、これは現実だ。
 そしてこの現実において、そのような選択ができる一般人がいるとすれば、それは紛れもない狂人だろう。
「……あなた、怖くなかったんですか? さっきまで話していた人が死に、しかも、すぐ傍にまで殺人者が迫っているという異常な状況が?」
「怖かったよ」
「なら、」
「だから行動したんでしょ? 痛いのが嫌で、死ぬのが怖い、ついでに弱い。僕はそういう人間だから最悪の事態になる前に急いで逃げたんだよ。で、運良く、ここにいる。あの状況で部屋の隅っこで『怖いよー』って蹲ってたとしたら助かったと思う? 僕は思わないなあ」
 軽い調子ながら、語られていたのは正論だった。しかし、正しいが故に狂っていた。
 優れた頭脳を持ちながらも感情に振り回されるのが人間だ。理性的な正しい判断を感情が邪魔することは往々にしてあり、また、それが普通でもある。だとすれば、戻橋トウヤはあまりにも異常だった。
 そんな少年は指を組み、口を開く。
「それで? 僕の個人的なポリシーや考え方はどうでもいい、って言ったのはタマちゃんだけど、僕はまだ持論を語り続けてもいいの? それとも本題に入る? さっき話したような内容が三日前の夜に起こったことだけど、タマちゃんの知りたい情報はあった?」
「……その呼び方はやめなさい」
 とりあえずそう非難してから珠子は答えた。
「ある、と言えばありました。確認になってしまいますが、事務所を襲った男は『伯楽翁のファイルについて話がある』と言っていたんですね?」
「僕が直接聞いたわけじゃないから断言できないけど、そんなようなことを言ってたかな」
「『フォウォレ』も?」
「そっちはちょっと自信ないかなー。そんなような発音の何かだったとは思うけど」
「ちなみに、あなたが盗んだという書類は今ここにありますか?」
「ないよ。ゴミに出しちゃったし。今頃は焼却炉の中だね」
 適当な調子に辟易しつつ、話を続ける。
「その中に、ご友人の借用証書以外の物、具体的には先に挙げた『伯楽』という名前に関係する書類や、何かのファイルはありましたか?」
「なかったと思うよ。事細かに読み込んだわけじゃないけど、どれも、借用書とか債務者の住所のリストみたいだった。だからこそ、捨てたんだけどさ。捨てた方が皆の為かなー、と思ってね。……ところでタマちゃん、僕って何か罪に問われるの?」
「さあ、どうでしょう……。あなたが火事場泥棒じみたことを行ったことは事実ですが、私は警察官ではありませんから……」
 そう言って、珠子は立ち上がる。
 必要な情報は得ることができた。CIROが睨んでいた通り、あのビルを襲ったのはフォウォレの人間であり、目的は例のファイルだった。目の前の少年は知る由もないだろうが、珠子達にとってはそのことが確認できただけで十分な収穫だった。
「では、そろそろお暇しようと思います」
「えー、もう帰っちゃうの? 折角だから晩御飯でも一緒に食べに行こうよ。僕、タマちゃんみたいな綺麗なおねーさん大好きだからさ」
「遠慮しておきます。あと、『タマちゃん』はいい加減やめてください。怒りますよ」
 玄関で靴を履きながら、見送りに来たトウヤに告げる。
「今日はご協力ありがとうございました、戻橋さん」
「トウヤでいいよ、タマちゃん」
「ですから……。はあ、もう、分かりました、戻橋さん。もしかするとまた詳しく話をお伺いすることになるかもしれませんが、その点、ご了承ください。また我々CIROは警察とは異なる機関であるが故、戻橋さんの窃盗行為について告げ口等を行うことはありえません。それはご安心ください」
「ああ、そうなんだ。ありがと」
 ですが、とジッと睨むように、真剣な眼差しを向けて珠子は言った。
「……見聞きした伯楽翁やフォウォレについては、誰に聞かれたとしても絶対に答えることなく、誤魔化してください。訳も分からず必死で窓から逃げた、何も見てないし聞いてない……。そう答えるようにしてください」
「僕、嘘は嫌いなんだけどなあ」
「そうしなければ、あなたにまで危害が及ぶ恐れがあります。いいですか、あなたはあの夜、あのビルにはいなかった。いたとしても、怖くなってすぐ逃げた。……こう応じれば当面の安全は確保できるはずです」
「ふーん……。タマちゃん、大変なんだね」
 背景を把握している雙ヶ岡珠子からすれば、戻橋トウヤの現状の方が余程大変なのだが、そこは知らぬが仏というやつだろう。そう考え、珠子は細かな事情を説明することなく、「では」と狭い部屋を後にしようとした。
 が、その瞬間、また軽過ぎる調子で少年はこう言った。
「ところで僕、窓から飛び降りて逃げる前に、そのビルを襲った人の顔見てるし、もしかしたら向こうにもこっちの顔見られてるかもしれないけど、これってタマちゃん的に結構ヤバかったりする?」
「…………え?」
 一拍置いて、珠子は叫んだ。
「―――そういうことは先に言えっっっ!!」