『今夜、世界からこの恋が消えても』試し読み

3

「ただいま~。おぉ、美味しそうな匂いだな」
 夕方、自宅の台所でカレーを煮込んでいると扉が開く音がした。しばらくして父さんが台所に顔を出す。
「月曜日恒例のカレーだけどね。あぁ、そういえば父さん。恋人が出来たから一応報告しておくよ」
「は……?」
 僕の律儀な報告に、父さんは目を丸くしていた。姉さんの提案により、重要なことは家族の間で報告し合うことが一応の決まりとなっていた。
「恋人って……恋人? お、女の子ってことだよな」
「同性愛は否定しないけど、女の子だよ」
「いや、違う。違わないけど。ほら、いきなりだったからさ」
 そう言うと父さんは、仕事着のまま食卓椅子に腰かけた。
 まずは洗濯機に仕事着を入れてくれと、何回言ってもその癖は直らない。しかし家計を支えてくれているのは父さんでもあり、あまり強く言えない。
 僕がそんな心境で目を向けていると、父さんが感慨深げに呟く。
「そうか、透もそういう時期か」
「とは言っても、別に何か変わる訳じゃないけど。一応、報告だけ」
 付き合う取り決めを交わした後、僕と日野は放課後の教室で色んな話をした。

「それじゃ早速だけど、透くんのことを聞いてもいい?」
 問われた僕は頷く。すると日野はメモ帳代わりにスマホを取り出し、本当に色々と尋ねてきた。
「まず誕生日は?」
「二月二十五日」
「おっけ~、二月二十五日っと。あれ? っていうかルノワールと同じ誕生日なんだ」
「いや、知らないけど。そうだったんだ」
「そうなんです。家族構成を聞いても?」
「父親と二人暮らし」
「なるほど」
「なんでちょっと納得した顔なんだ」
「透くん、年の割にしっかりして見えるからさ」
「しっかりっていうか、どうなんだろう。中三の頃、輪ゴムを手首にはめたまま登校したことがあって、それからしばらくあだ名がオカンだった」
「おっ、そういうのいいね。中三の頃、あだ名はオカンだったと」
「それ、メモするの?」
「しますね。血液型は?」
「AB型」
「あ~~、っぽい」
「なんだよ、ぽいって。そういう日野は?」
「……ABです」
「あぁ、っぽいな」
「おっ、なんか蔑(さげす)まれたぞ」
「別に蔑んでないよ。ほら、他にも質問は?」
「尊敬する人とかは?」
「……西川景子」
「失礼だけど、どちら様?」
「マニアックな純文学作家」
「その人のどんなところが好きなの」
「衛生感があるところ」
「衛生感? 清潔感じゃなくて?」
「清潔感は装えるけど、衛生感は装うことが出来ないものだと思ってる」
「透くん、やっぱり面白いね」
 それからも日野は様々なことを僕に聞いてきた。趣味、好きな芸能人、映画、場所、犬派か猫派か、休日は何をしているか、好きな食べ物、などなど。
 時には僕が聞き返すと、ほとんどのことに日野は応じてくれる。彼女は犬派で公園が好きらしく、甘いものに目がないという話だ。普通の女の子という感じがする。
 夕日が顔を出す時間になると、何を思ったのか日野はこんなことを提案してきた。
「それじゃ、恋人っぽいことをしてみよう」
 日野の言う恋人っぽいことというのは、スマホで二人の写真を撮ることだった。
 オレンジ色が背景となっている教室で撮影したそれは、日野が楽しげにピースサインをし、僕は恥ずかしさもあってかなり変な顔をしているという、笑えるものだった。
 僕がガラケーであることを伝え、連絡先を交換する。その写真を日野から送ってもらった。待ち受け画面に登録しようかと持ちかけられたが、さすがにそれは断る。
 お互い電車通学ということもあり、駅まで一緒に歩いて帰った。
 日野は楽しそうに自分の影を追う。
 学校近くの駅からそれぞれの最寄り駅までは、同じ方向に僕が三駅で、日野は四駅の距離にあることが分かった。今後は出来る限り一緒に下校しようという話になった。
 電車に乗っているのは十分に満たない時間だったが、並んで座席に腰かけてお喋りをするのは、なんとも言えないむず痒さがあった。
 
 父さんにそこまで詳細な話はしなかったが、恋人のことを夕飯を食べながら簡単に伝えた。日野に秘密にするよう言われていたので、擬似恋人という事情は伏せてある。
 空になったカレーライスの皿を前に、父さんは目をつむる。「か~~~っ」とよく分からない感嘆を吐いた。かと思えば突然、リビングの隣にある自分の部屋に向かった。
 我が家は決して広いとは言えない。そんな我が家で頑張ってこしらえた簡素な仏壇の前に父さんが座り、故人である母さんに向かって何かを報告し始める。
「透にも、彼女が出来ました。全く女の子の話もしないし、心配してたけどよかった」
「頼むから、変なことを母さんに相談したり報告するの、やめてくれないかな」
「変なことじゃない。透に彼女が出来たのは、母さんに報告すべき吉報じゃないか。それにきっと早苗がいたら、なんだ……その、」
 自ら口走ったことなのに、姉さんの話になると途端に父さんは及び腰になる。
 負い目があってのことだと思う。口には出さないが、自分が不甲斐ないせいで娘はいなくなってしまったんじゃないかと思っている節が、父さんにはあった。
「馬鹿なこと言ってないで、たまには夕飯の片付け手伝ってよ」
「あ、あぁ、そうだな。よし、いこう」
 夕食後は各自で過ごす。
 食器の片づけを済ませ、洗濯物をたたんだり制服やハンカチにアイロンを掛けたりしていると、父さんが風呂から出てきた。湯が冷めないうちに僕も入ることにする。
 姉さんはけっして、父さんに嫌気が差していなくなったわけではない。なんでも話す我が家で、姉さんは父さんにだけ話していないことがあった。それが関係している。
 髪と体を洗った後、足こそ伸ばせないが、僕にとっては慣れた安心できる我が家の浴槽(よくそう)で力を抜く。
 今日は色んなことがあった。明日も、ひょっとしてそうなんだろうか。
 自分をびっくりさせることなんて、僕の人生では起こらないと思っていた。
 それなのに昨日のあの時、僕は日野の提案に「はい」と答えていた。
 驚いた。僕にそんなことが出来るなんて。自分で自分を驚かせることが出来るなんて。
 恋人と付き合い始めたことを姉さんに報告したら、どんな反応をするだろうか。
 その考えに苦笑し、しばらくしてから浴槽を出る。脱衣所で髪と体をしっかり拭いてトランクスをはいた。ふと、鏡に映る人物を眺める。
 少しやせ過ぎな、神経質そうな自分がそこにはいた。