『今夜、世界からこの恋が消えても』試し読み

7

 月日は音もなく過ぎ去る。日野と恋人になって一週間以上が過ぎた。
 とは言っても放課後の過ごし方が変わっただけのことで、日常に大きな変化はない。
 本当に……そうだろうか?
 ここ最近、気付くと日野のことばかり考えている自分がいた。
 楽しそうに頬杖を突いている姿や、毛先にまで生命が及んでいそうな美しい髪のことを思い出す。夕日を受けると一瞬、その髪がつやつやと輝く。
 僕は単に日野の容姿に惹かれているだけなんだろうか。女性との接点が今までほとんどなくて、それで勘違いしてしまっているだけなんだろうか。
 でも、それだけじゃない気がした。
 あの発言のことが気になっていた。いつも笑顔を見せている日野が、その裏に何を隠しているのか知りたい。出来るなら彼女の力になりたい。
「神谷くん、なんだか最近は、心ここに在らずって感じだね」
 その考えはどうやら、日常のふとした瞬間に僕の心を奪うらしい。
 昼休みの時間、下川くんと話している最中にそう言われてしまった。
「え? そうかな。そんなことはないと思うけど」
 僕が取り繕って笑うと、下川くんは優しい顔付きになる。
「そうそう、前にも少し神谷くんに相談させてもらったけど、日本語で書かれた本を今も色々と注文して集めてるんだ。海外だと日本語の本は手に入りにくいしね」
 話の転換に少し戸惑いながらも、僕はそのことを思い出す。
「あぁ、言ってたね。どう、何か面白い本は見つかった?」
「うん、色々とあるけど、一番は格言集かな。ネットでも調べられるけど、本の方がこの体みたいにしっかりと身になる気がして」
 そう言うと下川くんは自分のお腹を叩いた。僕を笑わせようとして話題を提供してくれたんだろうか。下川くんの目論見通りに笑わされてしまう。
「歩く格言者になれるんだ」
「歩くことは誰でも出来るが、一歩を踏み出し続けることには困難を伴う」
「知らない格言だな。誰の?」
「ただの大食らい、下川の格言。略歴。生前は特に何もしてなかった」
 してやられたと、口元が緩む。僕は純粋に会話を楽しみ始める。インテリジェンスな男は海外だとモテるらしいよと言うと、下川くんは嬉しそうにした。
「それで神谷くん、何かと咳は隠すことが出来ないって格言、知ってる?」
「え……?」
 しかしそう切り出され、動揺してしまう。僕の家にも格言集の本があり、読んだことがあった。下川くんが口に出したものは「恋」に関する項目に綴られている言葉だった。
 恋と咳は隠すことが出来ない。
「くしゃみと咳は隠すことが出来ない、とかじゃなくて?」
 そう言ってとぼけた僕に、下川くんは「当たり」と言って微笑んだ。
 そんな具合に学校ではいつものように下川くんと話し、放課後は日野と過ごす。
 メールの習慣がなく得意でもなかったので小まめに連絡できないことを謝ると、日野は「気にしないで」と応じた。「二つ目の条件にも則ってるしね」とも。
 その代わり放課後の教室では二人ともよく話した。
「それじゃ、毎日料理してるんだ。私よりきっとぜんぜん上手だね」
「上手かどうかは分からないけど、まぁ、なんとかやってるよ」
「彼氏くんの口癖。まぁなんとかやってるよ、っと」
「またスマホでメモってるのか。というか、そんな口癖ないし」
 綿矢の家以降、日野とは深刻な話は出来ていない。無理に話を持っていこうと思えば出来たかもしれないが、そうするのは避けたかった。
 僕たちは恋人であり、恋人ではなかった。
 本気で好きにならないことを条件に課している。
 僕は当初、そのことになんの問題もなかった。元を辿れば僕がかけた迷惑だ。日野の思惑は分からないが、擬似恋人であることに不満はない。
 だけど形が事実を作るのか、あるいはそんな事実など存在しないのか。徐々に日野との付き合いによって組み変えられていく自分のことに、困惑していた。
 その日野と放課後を過ごし始め、二度目の金曜日が訪れる。
 明日は土曜日、休日だった。
「日野、それで休日のことなんだけどさ。六月にも入ったし、よかったらどこかに」
「びっくりだよね。気が付けば、もう六月なんだもんね」
 その時、微かに日野は表情を曇らせた。
 かと思えばいつもの笑顔になり、尋ねてくる。
「ごめんごめん。それで、休日の話だね。ちなみに透くんは今週は何か予定あるの?」
「あぁ、日曜は下川くんっていう友達が引っ越しちゃうから、見送りに行くけど」
 下川くんの話は以前から日野にはしていた。
 本当なら二人を引き合わせたかったのだけど、それは下川くんに辞退されてしまっていた。理由を聞くと、大切な人が増えると別れが辛くなるからとのことだった。
『日野さんとの時間を、今は大切にしてよ。ボクはもう、十分だからさ』
 そう言って穏やかに微笑んでいた彼を、僕は数少ない大切な友人だと思っている。
 海外ではあるが、転校での別れが何も今生の別れとなるわけではない。どんな方法でだって今は繋がれる。これからも僕らはきっと素敵な友人同士でいられる。
 下川くんとの別れを寂しく思いながらも、今は日野との会話に集中する。
「でも土曜日なら一日あいてるよ。どうする、どこかに行く?」
 その提案を予想していなかったのか、日野は「おっ」と言って反応を示した。
「それはつまり……いわゆる、デートというやつですね」
「まぁ、そうだけど。日野が嫌なら別に。ほら、休日はどうするのかと思っただけで。前の土曜日は用事があったんだろ」
「あぁ、うん。ちょっと病院にね。とは言っても、大したことじゃないんだけどさ」
 そこで日野の視線が一度それる。以前なら見逃していたかもしれない。
「しかしデートか。いいね、面白そう。ぜひお願いするよ。ただ午後からになっちゃうけど、いいかな」
 日野の反応に気を取られ、僕は言葉を返すのが少し遅れてしまう。
「え? あ、あぁ。いいけど。というか、休日でも午前中に決まった用事があるのか? 条件の一つ目も、放課後まではお互い話しかけないってのがあったけど」
 常々気になっていたことを聞くと、日野は返事を渋った。
「女の子には色々とあるのです。それで、どうする? どこ行こうか? 透くんは普段、本を読んだり家事をしたりしながら休日を過ごしてるんだよね」
 改めて確認されると、特に面白みのない休日の過ごし方だ。
「まぁそうだね。大体そんな感じ」
「あと、あんまりお金がかからない方がいいよね」
「情けないことに、その通りです」
 頭を下げると、日野は慌てて言葉を繋いだ。
「気にしないでよ。それじゃあ、休日の公園で過ごすのはどう? もしOKなら、透くんにお弁当を作ってもらって、私はその代わり、その後で喫茶店のデザートとかを奢るよ。それなら透くん的にも、そんなに負担にならないでしょ」
 その提案は有難かった。経済的にも、心理的にも。
「分かった。お弁当はリクエストとかある?」
「好き嫌いはないから、なんでも御座れです。あ、でも、あの紅茶は飲みたいかも」
「了解。なんでも御座れね。前から思ってたけど、日野って時々、言葉遣いがよく分からない感じになるよな」
 その日はそれからも教室で話をして、黄昏時が迫る頃には二人で帰った。