今夜、世界からこの涙が消えても

「綿矢先輩って大恋愛とかしたことなさそうですよね」

後輩の男の子から無邪気にそう言われたのは五月も終わりのことだった。
日差しがくすぐるように夏の訪れを知らせ、陽の光から逃れた大学の図書館裏は、ひんやりとしていて少し冷たい。
相手は成瀬という名字の、先月知り合ったばかりの一学年下の後輩だった。
不思議なことに彼は私を慕っていた。しかし自由を覚えたての大学一年生らしく、時々から回っていた。今も会話の弾みでしてしまった発言に自分で慌てていた。
大恋愛なんて私の柄じゃない。
いい意味で彼は正直だ。私は髪も短くてどことなく冷たい顔つきをしている。さばさばとした性格も相まって、周りからそういった印象をもたれても不思議ではなかった。
自分としても柄じゃないと思う。そもそも大恋愛ってなんだ。言葉からして陳腐で定義も曖昧だ。私たちの年齢でその大恋愛を経験した人間がどれだけいるのか。
ただ……。
「君が知らないだけだよ」
失恋も恋愛に含まれるのなら、私は高校時代に深く濃い恋愛をしたことがあった。
そのことは誰も知らない。自分の胸の内にだけそっと沈んでいる。相手も私が片思いをしていたなんて気付いていないはずだ。
私だけが知る失恋で、恋愛だ。
そんなことを思いながら時間を確認する。講義に向かう時刻となっていたので、「それじゃね」と言って私はその場を去る。
返答が意外だったからだろうか。後輩は軽く目を見開いていた。
それから約二週間後のことだった。その後輩に大学の図書館で告白されたのは。
「あなたのことが……好きです」
かすかに驚いたものの、答えは決まっていた。私は誰とも付き合う気がない。
今も以前も私が好きな異性はこの世界でたった一人だ。
そいつは私と同じで変わったやつだった。私と同じ趣味をしたやつだった。自分を忘れて誰かを恋するなんて、そんなことができるはずがないと思っていたやつだった。
でも、違った。
恋愛が人を組み替えていく姿を、私はそいつを通じて誰よりも間近に見た。
そいつが変わっていく姿を見ながら、なぜか置いていかれたようにも感じていた。
自分には何も始まらないのだ。何も始められないのだ、と。
「付き合ってもいいけど条件がある」
静かな言葉は静かな図書館の一角で、やはり静かに響いた。
「私を本気で好きにならないこと。これが守れる?」
告白してきた後輩は驚いていた。だけど本当に驚いていたのは私の方だった。
自分が信じられなかった。なぜ、そんな返答をしてしまったのだろう。
目の前の彼が、少しだけあいつに似ていたからだろうか。
あるいは私も恋愛によって、自分を忘れて組み替わっていきたいと思ったからか。
それともあいつとのことを、私は……。
いずれにせよ、今ならまだ全てを冗談にできた。始まっていく前に終わらせることができた。
しかし目の前の彼はわずかな逡巡を見せたあと、はっきりと私に向かって言った。
「はい」と。