今夜、世界からこの涙が消えても

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初めから、終わりが見えているような恋だった。
話は私が高校二年生の時に遡る。
私は人生で初めて恋をした。相手は同級生の男子生徒だった。
それだけなら別にいい。
人はきっと、どうやっても人を好きになるよう作られているから。人間がいるところになら恋愛はどこにでもある。悲しいことでも不自由なことでもない。
ただ、私の場合は少しだけ事情が違った。
私が好きになった相手は“親友の恋人”だった。
そいつの名前は神谷透という。
普通に比べて背は高いが、特別に目立つ容姿をしているわけじゃない。体が細くて白くて、一人でいることに慣れていて、時々悲しそうに笑う。
母親を幼い頃に亡くしたらしく、小説家志望の父親と二人で団地で暮らしていた。
理由は異なるが私と同じく両親が揃っていない家庭で、多分だけど、同じように色んなことを諦めたり受け入れたりしていた。
その透とは高校で初めて一緒になった。
とはいっても同じクラスになったことはない。透は家庭の事情で大学進学を諦めていた。高校卒業後は公務員になろうとしていた。
そういった事情もあって、特進クラスにいた私と私の親友とは関わりがなかった。
そのはずだった。
しかし高校二年生になってしばらくした五月終わりのある日、透が私の親友である日野真織に告白をした。
私であるところの綿矢泉。
ほとんど知らない同級生であった神谷透。
そして私の親友の日野真織。
透の告白がなければ、私たちが三人になることはなかった。透とは永遠に他人だった。人生の通行人だった。
だけど私たちは出会ってしまった。少しばかり、それぞれが特殊な事情を抱えて。
「あの、ちょっと話いいかな? 用事があってさ」
今でも昨日のことのように思い出せる。放課後になって私と真織が廊下で話していると透は突然現れた。真織に声をかけてきた。
思い返すと……かすかに悲しくなる。
透は最初から私の親友である真織のことだけを見ていた。当たり前だ。透が用事があったのは私ではなく、真織だったのだから。
私はただの脇役で、真織の友達か単なる女生徒Aだった。
そんな人物の恋の行方がどうなるかなんて、説明しなくても分かるだろう。
単なる女生徒Aが主役に恋をしてしまったようなものだ。
叶うわけがない。恋愛物語はあまり好きじゃないけど、お決まりの恋愛物語なら引き立て役にしかならないだろう。
もっとも、私は初めから透に恋をしていたわけじゃない。当初の私が透にもっていた印象は恋愛とは遠いものだった。
透は真織に声をかけてきた時、自分から声をかけておきながら明らかに気乗りしない顔をしていた。人間として芯はありそうに見えたが、どうにも胡散臭かった。
透に廊下で声をかけられた真織が、誘われて校舎裏へと二人で向かう。
真織とはあとで図書室の前で合流することになった。隠れて様子を見に行こうか迷ったものの親友の間にも最低限の礼儀はある。落ち着かない気持ちで真織を待ち続けた。
「彼と付き合うことにしました」
その真織が、約束の場所にやって来るなりそう言って私を驚かせる。
真織は飾らない性格と端正な容姿から人気があった。男子に媚びることもないので女子受けもいい。
そんな誰からも愛されるような子ではあったが、過去に告白されても全て断っていた。それがその時は違ったのだ。
「というか、どうしてまた?」
「告白されたの。だからね、付き合ってみようかと思って」
「ちょっと意味が分からない。えっと、神谷だっけ。ちなみにソイツに記憶のことは」
「教えてないし、教えるつもりもないよ。でもね、こんな状態でも何か新しいことが出来るかもしれないって考えたら、試してみたくなって」
記憶。
真織が普通の状態であれば、私だってもう少し落ち着いていられただろう。
だけど落ち着けない事情があった。生徒の中では私だけしか知らない、ある秘密が真織にあったからだ。
真織は記憶に障害を負っていた。前向性健忘という名前の特殊な記憶障害だ。
日常生活に大きな支障はないが、高校二年生のゴールデンウィーク中に事故に遭って以降、翌日に記憶を持ち越せなくなっていた。
寝て脳が一日の記憶を整理し始めると、整理されるべき記憶が消去されてしまい、新たに蓄積することができない。そんな状態だった。
その真織が、これまで面識すらなかった透に告白されて付き合うことにしたと言う。
あとで知ることになるのだけど、真織は透との付き合いに際して条件を出していた。
一つ目、放課後になるまで話しかけないこと。
二つ目、連絡はできるだけ簡潔にすること。
そして最後が……。自分のことを本気で好きにならないこと。