今夜、世界からこの涙が消えても

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いくら勘違いや空回りが多い僕でも、綿矢先輩と釣り合わないことは理解していた。
僕にはこれといった特徴がない。
外見的なことについてもそうだし、内面的なことについてもそうだ。
以前、そんな自分でいいのか悩んで秀でている部分を本気になって考えてみたけど、「成瀬くんは絶対に他人の悪口を言わない子です」という、小学校の通知表に書かれていた美点しか見つけられなかった。
僕には僕だけの持ち物がない。
国立大学に受かるために勉強だけは頑張ってきたが、同じ大学に入った人なら誰だってやってきたことだ。
事あるごとに考えてしまう。僕には僕だけの持ち物がない、と。
そんな僕が人生で初めて一目惚れをしてしまった。
相手は同じ大学の一学年上の先輩だった。その人の名前は綿矢泉さんという。
出会った日のことはよく覚えている。ひょっとすると生涯を通して忘れられないかもしれない。
大学に入学したばかりの四月のことだ。白く霞んだ春らしい空の下、僕は大学のキャンパスで同じ地元出身の先輩と話をしていた。
その男性の先輩とは中学も高校も一緒で、中学では同じ部活に所属していた。後輩の面倒見がいい先輩で、大学も同じになったことを喜んでくれていた。
「一年で可愛い子がいたら紹介してくれよな」
……いい意味で、とっても愛嬌のある人だった。
その先輩と話をしていたら、背筋の伸びた女性が近くを通りかかる。
「おう綿矢」
先輩が声をかけると女性が足をとめた。
短い黒髪が揺れ、切れ長の目をした美しい人が顔を向ける。
それが綿矢先輩だった。
先輩同士で何か話をし、やがて綿矢先輩が手で挨拶してその場を去ろうとする。
ただ、僕が見ていたからだろう。綿矢先輩が気付いて僕に視線を移動させた。
目と目が合った瞬間のことをよく覚えている。凜と寂しさが鳴った。
彼女の深いところには清冽な、他者の理解を拒むような寂しい何かがあった。
なぜか、そう感じていた。
でも綿矢先輩は僕と目が合ったことなんて覚えていないだろう。すぐに背中を向けて去っていく。彼女だけのどこかへ向けて消えていく。
僕が放心したようになっていると、地元が同じ先輩が気遣ってか声をかけてきた。
「おい成瀬、大丈夫か?」
「え、あ……はい」
綿矢先輩が美しかったということも勿論ある。しかし、美しさ以外の何かを僕は彼女に見ていた。その何かを通じて一瞬で心が奪われていた。
「あの、今の人って……」
先輩に質問し、綿矢泉さんという名前を知る。同じ学部ということも分かった。
「ひょっとしてお前、綿矢のことが気になってるのか?」
すると先輩がなんだか楽しそうな表情となる。
「いや……まぁ、その」
「なら俺に任せておけ」
当時、いったい何を任せるのか理解していなかった。はぁ、と曖昧に笑った。
それから約一週間後、その先輩に飲み会に誘われる。
何事も経験だと思って参加すると、十数人での先輩同士の居酒屋での飲み会だった。隣のテーブルには綿矢先輩がいた。
僕はそこで、ここに誘われた意図を驚きながらも理解する。
地元が同じ先輩は飲み会の幹事ということで、とりあえず座ってご飯を食べているよう言われた。僕は隅っこの席に座りながらも絶えず綿矢先輩のことを意識していた。
しばらくして、あちこちで話していた地元が同じ先輩が戻って来る。
「どうだ飲んでるか」
「未成年です」
「飲んでるな」
「ウーロン茶ですが」
そんな会話をしたあと、先輩が何かを思い出した様子になる。僕に向けて微笑むと、隣のテーブルにいる綿矢先輩に声をかけた。
「おい綿矢~。この一年、高校の後輩なんだけどさ。お前のことが好きだってよ」
僕の片思いが、飲み会が始まって一時間もしないうちにバラされる。周囲の人から歓声が上がり、興味深そうに僕を見てきた。
僕が慌てていると綿矢先輩も視線を向けてくる。
「え?  そうなの?」
「あ、いや、その」
「まぁでも……私はやめた方がいいよ。すっごく面倒な女だと思うから」
思えばそれが、綿矢先輩が僕を僕として認識してくれた最初の瞬間だった。
焦りもあって僕がその時になんと応じたのか覚えていない。
周りの人に押しやられ、やがて綿矢先輩の隣に移動して会話をすることになった。
寂しげに感じた印象とは異なり、思った以上にざっくばらんに話す人だった。
よく笑って冗談を言う。既に二十歳ということで、火のように強いお酒を水のように飲んでいた。明るくさえあった。
なんとか名前は知ってもらえたけど、連絡先の交換なんてことはできなかった。
続く二次会ではもっと話せるよう頑張ろうとしたが、綿矢先輩は参加しないということだった。一次会が終わると、何人かの先輩と一緒になって駅の方向へと消えていく。
「よ~し成瀬、ちゃんと残ってるな」
僕は地元が同じ先輩に「絶対だ」と言われて二次会に参加した。後輩を紹介してくれと以前言っていたのに、大恋愛中だという片思いの相手の話を彼から延々と聞いた。
初めての飲み会でへとへとになりながら深夜に帰宅する。
シャワーだけ浴びて眠りに就き……僕はそこで印象的な夢を見た。
またどこかで飲み会をしていた。そこには綿矢先輩もいた。僕は思わずといった調子で、隣で笑っている彼女に尋ねる。
「どうして綿矢先輩は笑っているんですか?」
夢とはいえ、かなり失礼な質問だ。何がそうさせたのだろう。
印象とは異なり、綿矢先輩が笑っている姿に違和感を覚えたからだろうか。彼女がどこか、無理をしてでも笑っているように見えたからか。
綿矢先輩が僕に顔を向ける。そっと微笑むと、答えた。
「泣くよりも」
はっとなって目覚める。朝になっていた。すぐに思い出そうとしたためか夢は消えず、その名残に心臓が強く鼓動していた。
人というのは不思議な生き物だと思う。夢なのに、夢のことにすぎないのに、綿矢先輩が出てきて彼女のことをまた好きになっていた。