今夜、世界からこの涙が消えても

何かで読んだことがあった。恋とは死ぬような切なさで、相手の手を掴みたいと願う気持ちだと。そして、恋愛の最大の幸福はそこにあると。
隣にいた先輩が僕を見る。微笑んできた。
あ……と。そう思った時には手が離される。その間に先輩は視線をショーに戻していた。
反省と後悔が瞬時に襲う。すみませんと言って謝ろうとしたけど、すぐには言い出せなかった。ショーが終わったあと急いで謝る。先輩はゆるく笑って首を左右に振った。
「そろそろ帰ろうか」
促されてショーの会場をあとにする。申し訳なくて、自分の無神経さや図々しさが情けなくて無言になってしまう。
水族館を出ると時刻は夜の七時半を過ぎていた。
「あ、あの……。もうこんな時間ですし、よかったら夕飯でも食べていきませんか?」
正直、断られるかと思った。それだけのことを僕はしてしまっていた。
しかし先輩は「いいよ」と答えてくれた。ごく普通に、自然に。
スマホのナビを頼りにして、歩いてお店へと向かう。
窓が大きくて開放感のあるイタリアンレストランが近くにあった。夕飯はそこで食べたらいいんじゃないかと事前に考えていて、幸いなことに席はまだあった。
向かい合って席に着き、慣れないながらも料理を注文する。
今日のことであらためて分かった。僕は情けないくらいに未熟だ。経験が足りなくて余裕もない。特に綿矢先輩の前だとすぐに自分を見失う。
自分を反省しながらも実感する。そうやって余裕がなくなるくらい、僕はこの人のことが好きなんだ。綿矢泉さんという目の前の女性のことが。
僕がじっと見つめていると先輩がそれに気付く。
「どうしたの?」
「いや、その……。綺麗だなと思って」
「え?」
「あ、や、景色とか。それで、あの……。夜景も綺麗な場所ですね、ここ。はは」
ぎこちなく僕が笑うと「何それ」と綿矢先輩は面白可笑しそうに微笑んでくれた。
その会話がきっかけとなり先輩と再び普通に話せるようになった。先輩にからかわれ、僕は慌てる。また、先輩が笑う。運ばれてきた料理をそれぞれ食べる。
僕はずっとドキドキしていた。こうやって緊張と喜びの合間にいることこそが、恋愛の醍醐味なのかもしれないと考えていた。
たとえ恋愛ごっこだとしても、先輩ともっと時間を積み重ねていきたい。
真似は偽物ではあるかもしれないけど、何かが始まるきっかけになり得るから。
真似を繰り返すことで、本当になることもあるかもしれないから。
だから……。
「ごめん、付き合うのやめようか」
先輩から突然そう言われた時、僕はその意味をよく理解することができなかった。
笑い話をして悪くない雰囲気のあと、先輩は控えめに微笑んでそう言った。
幸福で刻まれていた僕の心音が、突如として冷たく激しいものへと変わる。
今、先輩はなんと言ったんだ。
聞き間違いかもしれない。言葉の捉え違いかもしれない。付き合うには色んな意味がある。遊びに付き合うとか、買い物に付き合うとか。
緊張していた僕が、言葉を変な意味で切り抜いてしまった可能性もある。
「えっと。い、今なんて……」
「私たち、付き合うのやめよう。恋人を……やめよう」
だけどそれは間違いではなかった。言葉の意味通り恋人関係の解消だった。
途端に世界が重たくなる。
気にならなかったレストランの音が耳に突如として入ってきた。ナイフやフォークのこすれる音、恋人たちの楽しい会話、ホールで働くスタッフさんの声。
僕の世界はそれまで綿矢先輩でいっぱいで、そんなことは気にならなかった。
その世界が今、なくなった。
「どうして、ですか?  今日、僕が失礼なことをしたから……」
なんとか質問を口にすると綿矢先輩が首を横に振る。
「ううん。違う。ここ最近、ずっと考えてたことだから」
「何を考えてたんです?」
「君は私のことを、本気で好きでいてくれてるよね」
今、どうしようもない選択肢がここに生まれている気がした。
はいと応じれば、それは条件に反してしまう。
いいえと応じても、それは明らかに嘘だった。
だって僕はこんなにも先輩のことが好きだから。
どうすればいいんだろう。どうすれば、元に戻せる?  先輩と恋人同士でいられる?
先輩の質問には応じず、僕はうつむきがちになってしまう。
しかし、何かを口にする必要があることは分かっていた。そうでなければこのまま終わってしまうから。
「先輩は、どうして僕と……付き合ってくれたんですか?」
それなのに、出てきたのはそんな弱々しい言葉だった。終わることを否応なく、受け入れざるを得ないような。
「ごめん。本当は自分でも分からなかったんだ」
思わず僕は顔を上げる。先輩が、表情に切なく悲しい色を滲ませた。
「忘れられないことがあって……だけど、忘れなくちゃいけないことは分かってて。恋愛ごっこをすればそれが全部、解決するかもしれないと思ったのかもね。お互いには深く入りこまず、表面的な、ただ楽しいだけの恋愛をすれば」
ただ楽しいだけの恋愛。それが先輩の求めているもので、僕が差し出していたものは違ったということなんだろうか。
いずれにせよ……。
「じゃあ、今からでもしましょうよ。単に、楽しいだけの恋愛を。僕が気を付ければいいだけのことですよね? 先輩に踏み込まないようにして、それで」
僕は必死になっていた。必死になる理由があったからだ。
けれど届かなかった。
「やめよう。最初からだめだったんだよ。こうなることは、どこかで分かってた」
「え……」
「それに一番初めに言ったでしょ?  私、優しい男は嫌いなの」
優しさは、何も持たない自分が最低限持たなければならない、何かだった。
でもそれは先輩の前では不要だったようだ。むしろ邪魔だったようだ。
「優しい人間が、どうして嫌いなんですか?」
愕然としながらも、いつかのように僕は先輩に尋ねる。先輩は迷うことなく答えた。
「優しい人間って、いい人間じゃん。そういうやつってさ……早く死んじゃうから」
それが先輩の本心なのか、僕を諦めさせようとして言った言葉なのかは分からない。
分かっているのは、今の自分ではどうやっても先輩と付き合えないという、事実だった。
僕が無言になっていると先輩が立ち上がる。
「今まで付き合ってくれてありがとう。振り回してごめん。でも、楽しかったね」
先輩がテーブルにあった伝票を手にした。
僕が何かを言う前に「今日まで付き合ってくれたお礼。それじゃ」と言って笑顔を見せ、僕にどんな付け込む隙も与えずにその場を去っていった。
あとにはただ僕だけが残された。
会計が終わり、先輩が扉を開いてお店を出ていく。僕は椅子に座ったまま、何かが終わっていく音を聞いていた。
窓を見ると外は暗く、そのため明るい店内を窓ガラスが映していた。
そこには僕が映っていた。先輩の本当のことを何一つ知らない僕が映っていた。
しばらくして夏休みになり、その夏もあっという間に終わる。
その間、先輩とは一度も話すことができなかった。