今夜、世界からこの涙が消えても

8

何か、悪いことをしてしまっただろうか。それとも僕の勘違いなのか。
綿矢先輩からメッセージの返事がなかったことを情けなくも僕は気にしていた。
僕が一人で浮かれているだけで、先輩は僕とのことを迷惑に思っているのかもしれない。そう考えるとなんだか怖くなる。
ただ、考えすぎという可能性もあった。先輩と大学で会えばいつもと同じように話をすることができたからだ。
しかし初めてのデート以降、会話の最中に先輩はぼうっとすることがあった。何かを考え込んでいるようにも見えた。今日もそうだ。
「先輩、大丈夫ですか?」
「え?  あ、うん。ごめん」
声をかけると先輩は笑顔を作る。文字通り作っているという感じの笑顔だった。
「ひょっとして眠れてないんですか?  以前に図書館で寝てたこともありましたよね。疲れてるんじゃ」
「あぁ、あれは前日の夜に遅くまで書き物をしてて、睡眠が足りてなかっただけで」
「書き物って、レポートとかですか?」
「ううん。個人的なものっていうか、ちょっと期限があるもので……。とにかく今はちゃんと寝てるし気にしないで。単に少し、考えごとがあってさ」
それは自分とのことだろうかと心配になり、体を硬直させてしまう。尋ねようとしたが踏み込む勇気がなかった。
「あの、何か僕で力になれることがあったら遠慮なく言ってくださいね」
その代わり、気付くと別のことを口にしていた。
先輩が無言で僕を見つめる。なぜか悲しげに笑った。
「大丈夫だよ。君は本当、あれだよね。やさし……」
先輩が何かを言いかけて言葉をやめる。意味を問うように見つめていると「ううん、なんでもない」と応じた。
僕は結局、メッセージの件も含めて考えすぎないことにした。綿矢先輩がそれを望んでいないように思えたからだ。なら勝手に心配しても仕方ない。
だけど本当ならもっときちんと、そのことを考えるべきだったのかもしれない。

綿矢先輩と約束通り水族館へ足を運んだのは、約束してから二週間後のことだった。
以前と同じように講義後に合流し、地下鉄で水族館の最寄り駅へと向かう。
ナイト・アクアリウムの催しは午後五時から開始ということだった。
外では寂しいオレンジ色が空に渦巻いていたが、入館すると幻想的にライトアップされた空間が僕らを迎えてくれる。完全に大人向けの装いになっていた。
「へぇ、なかなか雰囲気いいね」
先輩と二人、館内を歩く。思った以上に雰囲気が良くて僕は変に緊張してしまう。
周りは恋人同士ばかりだった。仲が良さそうに手を繋いで、水槽を覗いている人たちもいる。
僕は今日、先輩と手を繋ぐことができないかと考えていた。実際に先輩の白く繊細な指に視線がいくこともあったけど、いざとなると手を伸ばすことが躊躇われた。
「どうしたの?  黙っちゃって」
「あ、いや……き、緊張してるだけです」
そう答えながらもまた、反射的に先輩の手を見てしまう。それには先輩も気付いていたと思うけど、特に何かを言ってくることはなかった。
「せっかくだし楽しもうよ。ほら、行こ」
間接照明で照らされた通路を先輩は慣れたように進む。前に来たことあるんですかと尋ねると「一度だけね」と答えた。「高校生の時にさ」と。
高校生の時。それは、かつての恋人さんとだろうか。
かすかに胸を痛めながらも色とりどりの魚が泳ぐ姿を二人で鑑賞する。しばらくすると先輩が、ある水槽の前で立ち止まった。
泳ぐというよりも、一匹の大きな魚が水中を優雅に飛んでいた。
「エイですね」
「どこをどう切ってもエイだね」
「……エイって食べられるんですかね」
「成瀬くん、水族館でなかなか勇気ある発言をするね。係員の人が驚くかもよ」
先輩にからかわれて慌ててしまう。確かに不謹慎だったかもしれない。
慌てる僕を見て先輩は笑ってくれた。そのことで嬉しくなるも、先輩の笑顔は長くは続かなかった。再び視線を水槽に戻し、ぽつりとこぼす。
「この子は変わらず、今もいるんだな」
まただ……。先輩が一瞬だけ現在から姿を消した。何かを儚んでいた。
高校生の時にこの水族館に来たことがあるという話だけど、その間に何かが変わってしまったということなんだろうか。
先輩が無言となって次の水槽に移る。僕はその後ろ姿を何も言わずにただ見つめた。
やがて陽も落ちて暗くなり、屋外でのイルカのナイトショーの時間がやってきた。
思った以上に観客がいた。館内と同じように落ち着いた色の間接照明が使用され、青空の下で見るイルカショーとは趣がまったく異なる。
そんな雰囲気がある中でショーが始まった。たくさんの恋人たちにまざり、イルカが飛び跳ねる姿を綿矢先輩と眺める。
目の前にいた男女がそっと手を繋いだ。その光景に僕の手がピクリと動いてしまう。
図々しくないだろうか。不快に思われないだろうか。緊張しながらも、思い切って綿矢先輩の手を掴んだ。