今夜、世界からこの涙が消えても

7

透と真織が初めてデートをした場所は、桜並木で有名な公園だった。二人が付き合い始めて迎えた二度目の土曜日で、季節は初夏だ。
私は真織に相談は受けていたが初デートには参加しなかった。
ただ、そのデートを境にして明確に変わったことがある。
透が真織の記憶障害を知ってしまったのだ。そして知ったうえで、自分が記憶障害を知っていることは日記に残さないよう真織に頼んだ。
明日以降の真織の精神に、少しでも負担をかけたくなかったからだという。
当時、私はそのことを知らなかった。私は知らないことに囲まれてばかりだ。
しかし、あとから思い返してみるとよく分かる。そのデートの翌週から、透の真織への態度がはっきり変わったからだ。
透は私と同じでどこか冷めたやつのはずだった。
そんなやつが放課後、学校の駐輪場に放置されていた自転車を真織のために直した。
真織を喜ばせようとして、真織がしたいことを透が叶え始める。
ひと気のない田んぼ道で自転車の荷台に真織を乗せ、二人乗りをしてペダルを全力で漕いでいた。
透は無理や無茶とは無縁の人間のはずだった。
小説を読み、家を綺麗に保ち、紅茶をいれて静かにしている。高校卒業後には公務員になるという現実的な人生を生きている。
その透が真織を喜ばせるため、真織が綴る日記が楽しい記憶で溢れるよう無茶をしていた。真織のために生きていた。
透のそばで真織は笑っていた。いや、真織だけじゃない。透も笑っていた。
二人はそれから徐々に恋人としての道を歩み始めた。
二回目のデートらしいデートの場所は休日の水族館だった。これには私も参加した。私は透の変化に気付き、真織の秘密を知ったのではないかと考えていた。
でもどんな偶然か、その日、私は透の秘密をも知ることになった。
デート当日の集合場所は、都心のターミナル駅の前にある時計台だった。駅に直結したビルには大きな本屋が入っていて、私は集合前にそこを訪れる。
西川景子   芥河賞候補作   発売記念サイン会
驚くことに、当時初めて芥河賞候補になった西川景子のサイン会が行われていた。
本屋を出て集合場所へと向かう。しばらくして、わずかに様子がおかしい透が現れた。真織はまだ来ていなかった。
透も西川景子のファンということもあり、サイン会のことを伝えた。すると……。
「西川景子って、僕の姉さんなんだ」
そこで私は透に六歳違いのお姉さんがいたことを知る。
それが、西川景子だったことを知る。
透の母親の死後、母親に代わってお姉さんは幼い透の面倒をみていたらしい。妻の死でショックを受けて現実逃避するようになった父親に代わり、一切の家事をしていた。
お姉さんにはしかし、小説を書く才能があった。有名な文学賞の最終選考に十代で残るほどの。だけど透と父親のため、小説家になる夢を諦めていた。
そんなお姉さんに小説家の道を歩ませたのが透だった。
父親のことを含め家庭のことは全て自分がやるからと、高校生になるまでに家事や料理などを教わり、お姉さんを自由にした。
その結果、お姉さんは独り立ちをして自分の道を歩み、芥河賞候補作家にまでなる。
「そっか……。まぁ、色々あるよね。分かった。私たちは気にせず話してきなよ」
透はデート前に偶然書店を訪れたことで、お姉さんと再会したということだった。
サイン会の最中で話せなかったこともあり、終了後に話す約束をしたという。
「真織には私の方から上手く言っておくから、気にしないでいいよ。お弁当も遠慮なく頂くね。というか、神谷のお姉さんが西川景子だってこと、真織に伝えても大丈夫?」
「それは、大丈夫。誰かに言いふらすような人じゃないし。何より、僕の恋人だからね」
「恋人……ね。最初はお互い冗談とか、そういうので付き合ったのかと思ったけど、なんか神谷、最近ちゃんとしてるよね。うん、ちゃんとしてる。真織を喜ばせようとしてる。私には、ちょっと気を遣い過ぎにも見えるんだけどさ」
透は水族館デートのためにお弁当を三人分も用意してくれていた。それを受け取ったあと、私は探るような言葉を投げかける。
真織の記憶障害を知っているんじゃないかと考えてのことだった。
雑踏の中で私たちは見つめ合う。
「日野には、言っちゃだめだよ」
そう言ってから、透は真剣な表情と口調で続けた。
「僕、本気で日野のことが好きなんだ。何を当たり前にって、そう思われるかもしれないけど。本気で、好きなんだ。だから自分が出来ることなら、どんなことでもしてあげたい。いや、あげたいって言葉は傲慢だね。したい。彼女が喜ぶことなら、どんなことでもしたい。そう思ってるんだ」
透の目は知り合ったばかりの頃とは違った。真織に向けた真摯な想いが宿っていた。
そのことを痛切に感じ取りながらも私は透に尋ねる。
「どうして、そのことを真織に伝えちゃだめなの」
「決まってるだろ。恥ずかしいからだよ」
「そんな柄じゃないでしょ。ねぇ神谷。あんた、ひょっとして……知ってるんでしょ、真織のこと」
私は真意をくみ取ろうとして透の目をまっすぐに覗き込む。
その瞳は静かで揺るぎがなかった。
「うん、知ってる」
「どうして知ってるの?  真織が話した……わけ、ないよね」
「いや、日野が教えてくれたんだ。だけど僕はそのことを、手帳や日記に書かないでくれって頼んだ。今日の日野は……僕が記憶障害を知ってることを、知らない」
私がその発言に驚いていると透が控えめに微笑む。
「僕が知ってることも言っちゃだめだからね」
透はお姉さんと話すべくその場を離れ、約束の時間になると真織がやって来る。
私は透とお姉さんのことを説明し、真織と二人で水族館へと向かった。透を待ちながらも水族館の中を二人で回る。
その頃にはもう、真織が透に取られてしまうかもしれないという、幼い嫉妬を覚えなくなっていた。
私はすぐに内側と外側を区別する。透はそれまで外側にいた。仲良くなっても警戒は完全に解けていなかった。それがその日、変わった。
記憶障害を知ったうえで真織を楽しませようとしている透のことを、見直していた。
いつの間にか透のことを内側に入れていた。
次第に三人でいることに、三人で遊ぶことに私は喜びを覚えるようになっていく。別の週には三人で遊園地に向かった。夏休みに入ると三人で芥河賞の受賞発表の生中継をネットを通じて見守った。西川景子の受賞を知った時には三人で喜んだ。
私たちは三人だった。そこには力強い、満ち足りた幸福があった。
しかし三人であることに喜びを覚えていたのは、実は私だけだったのかもしれない。
透と真織はいつしか、どんどん二人になっていった。こんな言い方はおかしいかもしれないけど、私にとってはそうだった。三人である意味が薄れていった。
真織には透がいればよくて、透には真織がいればいい。
それはそうだ。二人は恋人なのだから。
夏休みの最終日、二人が花火大会に行くと言った時には参加するのを遠慮した。
いつか三人でお祭りに行くかもしれないと考えて浴衣も用意していた。本当はちょっとだけ楽しみにしていた。
でも私は必要ないのだ。恋愛で結ばれている二人の邪魔をするだけだ。
私は単なる友人Aで、親友で……。少しだけ、自分でも当時気付かないくらいにほんの少しだけ、透を好きになりかけている恋愛経験のない女だ。
花火大会の夜、私は自宅のマンションに一人でいた。窓からは隣町で行われている花火大会の花火が、小さくだけど見えた。
意味もないのに浴衣に着替え、打ち上げられる花火を私は一人で見つめる。
二人はきっと、あの花火を間近に見ているんだろう。手を繋ぎ、恋人として一緒にいるんだろう。
そんなことを考えながら夏の終わりを感じていた。
それが私の十七歳だった。