今夜、世界からこの涙が消えても

それ以降、僕は思い切って大学で綿矢先輩に話しかけに行った。
「こ、こんにちは綿矢先輩」
最初に挨拶した時、先輩は明らかに驚いていた。
「あれ、この間の子?  えっと……成瀬くん、だよね。私が好きっていう」
「あ、はい。その節はどうも。ご、ご機嫌いかがですか?」
「ん……え?  ま、まぁ、それなりかな」
自分の好意が伝わっている相手と話すのは、なんだか不思議な感じがした。ふわふわと頼りなげで曖昧な感情の塊が、周りに浮かんでいるような気さえする。
綿矢先輩はショートカットがよく似合う凜としたクールな印象だった。
だけど飲み会の時に感じたように、話してみると気さくな人で、初対面の時に覚えた寂しさとは無縁な人のように思えた。
「あ、もう行かなくちゃ。じゃね……えっと、成瀬くん」
それ以降も僕はキャンパスで先輩を見かける度に挨拶をした。
その時に交わされる会話は当たり障りのないものばかりだった。天気のことや講義のこと。同じ学部の教授のこと。共通の知り合いである、僕と地元が同じ先輩のこと。
それでも僕は満足だった。綿矢先輩が僕を僕として認識してくれている。成瀬くん、と名字すら呼んでくれた。
ここにあるのはゼロじゃなくて、育っていない一なんだと感じることができた。
ゼロはどれだけ掛けても一にはならない。
ゼロと一の間には無限にも似た距離がある。
通行人や背景の一部としてゼロで終わってしまうことが多い中、大げさかもしれないけど、僕と綿矢先輩の間には一があった。
僕はその一を大事にした。大事にしたいと願った。
大学生活にも慣れ始めると、大学に向かう目的の半分以上が綿矢先輩と少しでも会話を交わすことになっていた。
「あっ、綿矢先輩」
「あぁ成瀬くんか。またどうしてこんなところに?」
「今日はまだ先輩に挨拶してなかったので、頑張って探しました」
「君って、見た目によらず結構変わってるよね」
その綿矢先輩だけど、キャンパスの分かりやすい場所にいる時もあれば、誰も人がいないような場所でひっそりしている時もあった。
僕の存在が鬱陶しかったせいかもしれないと考えて、愕然としかけたこともあったけど、地元が同じ先輩に聞くと以前からそんな調子らしかった。
「綿矢は一人が好きなんだよ」
一人でぼんやり空を見たり、本を読んだり、日記のようなノートを開いていることが多いという。その光景は僕もこれまで目にしていた。
「でも成瀬と話してる時は割と楽しそうだし、気にしすぎるな。それより俺の話を聞いてくれよ。あの子がさ~」
恋だ愛だ大恋愛だという話を聞きながらも、彼の言葉に勇気をもらう。
僕はそれからも様々な場所で綿矢先輩を見つけては挨拶した。
それは事務棟の裏だったり、使われていない教室だったり、図書館の純文学コーナー近くの机、離れた位置にある天井の低い学食、図書館裏のベンチだったりした。
「先輩、こんにちは」
今日は綿矢先輩は図書館裏のベンチにいた。初夏の日差しもそこには届かず、ひんやりとしていて涼しい。先輩の手には開いた文庫本があった。
「はい、こんにちは。たまにさ、成瀬くんと挨拶してると小学校の教師の気分になることがあるよ」
「先輩、教師も似合いそうですよね」
「眼鏡でもかけてあげようか?」
「いや、先輩はそのままでいいというか、なんというか」
微笑を浮かべながら僕を見ていた先輩が、手にしていた文庫本を閉じる。
その際に表紙に目がいった。
意外なことに、世間で評判になっている映画の原作小説だった。作者が美人なことで有名だから覚えている。西川景子さんという女性作家の作品で確か大人の恋愛ものだ。
「先輩も恋愛小説を読むんですね。それ、映画になってるやつですよね」
「恋愛小説?  あぁ、この小説のことね。原作は純文学のジャンルだし、別に恋愛小説ってわけじゃないんだけどさ。まぁでも、恋愛ものとして読んでも面白いかもね」
先輩が少しだけ饒舌になっていた。
ひょっとすると先輩は純文学というジャンルが好きなのかもしれない。実際に図書館のコーナーで見かけることもあった。
「面白そうですね。僕も買ってみようかな」
「いいんじゃない?  登場人物に学生はいないけど、普通に楽しめると思うよ。今なら文庫本化されてるし、どこの本屋さんにでもあると思うから」
思わず先輩と話が盛り上がりそうになり、僕は浮かれてしまう。
「泣ける系ですか?」
「かもしれないね」
「僕、そういうのに弱いんで気を付けないと」
「確かに君、そういうのでボロボロ泣きそうなタイプに見えるもんね」
先輩が悪戯な顔となって笑い、僕は恥ずかしくなる。まさにそんなタイプだからだ。
「ごめんごめん。悪口じゃないからさ。あ、そういえば聞いた?」
気を遣ってか綿矢先輩が話題を転換する。僕と地元が同じ例の先輩が、片思いの相手に告白して振られたという話になった。
それなら僕も知っていた。実は誰よりも詳しいかもしれない。大学で会う度にたっぷり話を聞かされていたし、振られた彼を慰めたのは僕だからだ。
そのことを伝えると綿矢先輩は笑った。
「じゃあ成瀬くんも聞かされてたんだ。大恋愛の果てに振られたってやつ」
「そうですね。出会いから別れまで含めて、もう六回は聞いてます」
「映画六本分だね」
「だけど毎回、僕を飽きさせないためか細部が少し違ったり、演出が強化されていったりしてます。最終的には大感動作になるかも。いや、大恋愛作かな」
恋愛に絡めた話をしている最中、ふとあることに考えが及ぶ。
綿矢先輩に恋人がいるのか、僕は知らなかった。地元が同じ先輩も詳しいことは知らないらしく……それを今、綿矢先輩本人から聞けるチャンスかもしれない。
そう考えると途端に緊張してしまう。
そんな僕の心境には気付かず、綿矢先輩は言葉を続けていた。
「飽きさせないためっていうか、勝手に継ぎ足してるだけだと思うけどな」
「でも僕としては楽しめてます。大恋愛なんて、現実だとそうそうありませんしね」
「あぁ、うん。そだね」
なぜだろう。綿矢先輩の返答がわずかに遅れた。それに伴ってか、先輩の顔に寂しい光のようなものが一瞬だけ差した気がする。
ただ、緊張していた僕はそのことにあまり気が回せなかった。
どくどくと心臓の鼓動が自覚される。綿矢先輩のことが僕は知りたかった。先輩に恋人はいるのか。それが気になっていた。
というか、これだけ綺麗な人だ。過去に恋人がいたことだってあるだろう。
その誰かには、先輩は僕らには見せない顔を見せていたのだろうか。あるいは今も見せているのだろうか。
それが知りたかった。どうにかして尋ねてみたかった。
だから軽い空気を作って、ごく自然な調子で聞いてみようと思った。冗談まじりに。できるだけなんでもなく。「それこそ」と前置いて。
「綿矢先輩って大恋愛とかしたことなさそうですよね」
一瞬、先輩が驚いたような表情を見せた。
その直後、いくらなんでも失礼な発言をしたことに思い至る。慌てて謝ろうとすると、先輩は遠くを見るような目をしたあとにそっと笑う。
「君が知らないだけだよ」
「え?」
綿矢先輩が再び微笑んだ。ひどく、悲しげだった。
それから先輩がスマホで時間を確認する。
「もうこんな時間か。そろそろ行かなくちゃ。それじゃね」
そして、そんな言葉を残して去っていった。
いつものように一人で歩き出した。
先輩の後ろ姿を僕は無言で見つめる。心は水たまりのような静けさの中にいた。
僕の知らない先輩の世界があるんだということを、強く自覚させられた。
『君が知らないだけだよ』
その言葉の通りだった。僕は先輩のことを何も知らない。現在のみならず過去も。
やり場のない悲憤が僕という存在に絡みつく。
それだけじゃなく、あるいはこれからのことも……。