今夜、世界からこの涙が消えても

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目覚めたら全てが夢で終わっているかと思った。
勿論、心の底から僕はそんなことを思っているわけではない。現実は強固だ。
だけどそれくらい現実感のないことだった。僕は綿矢先輩と付き合うことになった。
図書館で告白して条件付きで受け入れられたあと、僕らは連絡先を交換した。
『じゃあ今日から恋人ってやつかな』
『そう、みたいですね……』
『年上の恋人ができてどう?  嬉しい?』
『え、や、それは』
『冗談だから。まともに答えなくていいよ。それじゃ、よろしくね』
綿矢先輩は先程までの深刻な自分を忘れたかのようだった。冗談まじりで言葉を紡ぎ、机に広げられていた本などを片付けるとその場を去ろうとした。
『あ、あのっ……。どうして、本気で好きになっちゃいけないんですか?』
思い切って尋ねると綿矢先輩が振り返る。僕をじっと見つめた。
『伝わってないかもしれないんですけど。僕、本気で先輩のことが……』
『じゃあだめだよ。別れよっか』
そのあっさりとした言葉の響きに僕は怯えてしまう。先輩はわずかに考え込んだ。
『私は……。うん、ごっこでいいの。表面的な恋愛で構わない。むしろ、それがいい。成瀬くんがその条件が嫌なら、やっぱりさ』
やめようか。
そう言われる前に僕は自分の意志を差し込む。
『いえ、それで大丈夫です。それでも先輩と、一緒にいられるなら』
ごっこ。僕らの付き合いは恋愛ごっこだと綿矢先輩は言った。
表面的な恋愛でいいと。
その言葉にどうまとまりをつけるべきか僕は考えた。
だけど案外、結論は早く出た。ごっこで構わない。今はそれでもいいと。
最初は真似事でも、いつかそれが本物になることがあるかもしれないから。
そんなことを思い返しながら大学へと向かう準備をする。
入学に伴い、僕は大学近くのアパートで一人暮らしを始めていた。今日は講義が一時間目からある日なのでいつもより早く家を出る。大学までは徒歩で十分もかからない。
敷地内に入ると、ついくせで綿矢先輩がいないか探してしまう。
《先輩、今日って大学に来てます?》
アプリでそう尋ねれば済むだけの話かもしれないが、昨日の今日でメッセージを送る勇気がなかった。
結局、綿矢先輩の姿を見ることのないまま午前の時間は講義で過ぎていく。
昼休みになり、同じ学部でできた友人たちと学食へ向かう。日替わりメニューで悩んでいると視界の端で特別なものを見た気がした。
そちらに目を向けると、昼食が載ったトレイを持った綿矢先輩が、食堂の椅子に一人で腰かけようとしているところだった。
「また綿矢先輩を見てるのか?」
視線の先に気付いた友人にそう言われる。僕の綿矢先輩好きは知られ、その関係もあって彼らも先輩のことを認識していた。
一人が言及すると、ほかの友人たちも綿矢先輩に視線を転じる。
「うわ、一人で堂々と食事してる。相変わらず格好いいな、あの人」
「不思議な人だよな。浮世離れしてるっていうかさ」
それが多分、同じ大学に通う人たちの共通の認識や評価だろう。
友達がいないと思われたくなくて群れがちな大学の中、そういったこととは無関係で一人でいて、飄々としていて、格好良くて、不思議で……。
その先輩と僕が、条件付きではあっても付き合っていることが信じられなかった。
先に席を取っておくという友人らを見送ったあと、僕はスマホを手に取る。迷った末に綿矢先輩へとメッセージを送った。
《こんにちは。先輩のこと見つけましたよ》
少しだけ緊張していた。メッセージがきたことには気付いても、相手が僕だと知って無視されたらどうしよう。
そんな姿を目の当たりにしてしまったら、どんな気持ちになるだろう。
視界の中で綿矢先輩が何かに気付いたようにスマホを手に取る。タップして画面に視線を注いだあと、きょろきょろと辺りを確認し始めた。
やがて僕を見つけ、そっと笑う。スマホに何かを打ち込み始めたと思ったら、先輩からメッセージがきた。
《寝ぐせついてるから直した方がいいよ》
思わず髪の毛を触ってしまった。慌てて直そうとしていると再びメッセージがくる。
《ごめん、嘘》
再び視線を向けた先では、先輩が静かに微笑んでいた。
付き合い始めたからといって何かが劇的に進むことも、また退くこともなかった。
大学では綿矢先輩はいつもの先輩らしく過ごしていたし、僕が恋人面をしてそのスタイルを乱すこともなかった。
付き合い始めたことを友人に僕が話していないように、綿矢先輩も誰かに話している様子はなかった。それでも明確に変わったことがあった。
「やっほ、なに読んでるの?」
アパートから近いこともあり、勉強や読書をする時は大学の図書館を利用していた。
綿矢先輩が以前読んでいた小説を購入してページを開いていたら、その先輩が声をかけてきた。
「いや、そこまで驚かなくても。目、すごい見開いてるよ」
先輩から声をかけてくるなんて、これまでにないことだった。指摘されたように目も見開いてしまっていたかもしれない。
「いや、その……びっくりしてしまって」
先輩が微笑を浮かべ、あいていた隣の席に座る。僕が手にしていた小説に気付いた。
「あれ?  その小説って……この間の?」
「あ、そうです。大学の書店にも売っていたので買ってみました」
「ここで読んで大丈夫なの?  図書館で小説読んで、えぐえぐ泣いてる人の姿って結構シュールだと思うけど」
言われて想像する。確かにかなりシュールな姿だった。
「泣きそうになったら、トイレに駆け込むから大丈夫です」
「余計シュールだって」
頬杖を突いて先輩が笑う。その瞬間、よく似合っているショートの黒髪が揺れた。
先輩は滴るように美しかった。
その美しさに目を奪われていると先輩が尋ねてくる。
「そういえば君って、これまでに誰かと付き合ったことあるの?」
それは、恋愛ごっこのことと関係があるのだろうか。どう答えるべきか迷ったが、隠すことでもなかったため正直に応じた。
「あ、まぁ、はい」
「ちょっと意外かも。どんな子だったの」
「えっと。家事と料理が得意で、育つのが好きだった子です」
正直に話そうとしたあまり、答えたあとに自分にしか分からない説明をしていることに気付く。育つのが好きと言われても意味が通じないだろう。
「え……家事と料理が得意で」
実際に先輩は困惑していた。意味が通じるように僕は話を続ける。
高校一年生の頃に初めてできた恋人は、とても大らかな性格と体格をしていた。
小学生ならまだしも、高校生になったら容姿などがクラスのカーストを勝手に作る。だけどその子はそういったクラスのカーストとはなぜか無縁だった。
率先してクラスの掃除係を買って出て、母親直伝という方法で驚くほど効率的に教室をピカピカにした。
のしのしと歩いて朗らかに笑い、皆からマスコットキャラのように慕われていた。
それなのに学年で群を抜いて頭が良かった。
育つという言葉が好きでお手製のお弁当をもりもり食べ、農林水産省に入って日本の食料自給率を上げるのが夢だと語っていた。
かつての恋人の説明をすると、先輩は呆気に取られていた。
「というか、どうしてその子と付き合ったの?」
「僕が細いから、もっと食べた方がいいってオニギリとかくれたんです」
「それで?」
「いいお米なのか、海苔の質がいいのか、そのオニギリがとっても美味しくて」
あまりにも美味しいのでオカズも気になって分けてもらうようになり、いつしかお弁当を自分の分まで作ってもらい、気付いたら好きになっていた。
説明を終えると先輩が手で自分の顔を隠す。何事かと思ったらすごく笑っていた。
「何それ、平和すぎ。そんなことってあるの?」
「はい、ありました。料理だけじゃなくて、日本茶を水筒に入れて持って来てたんですけど、その日本茶もどんな淹れ方をしてるのかすごく美味しいんです。なんていうか、甘いんですよ。あ、もちろん砂糖とかは入ってないんですけど」
しかしその女の子とも、受験勉強が本格化する三年生になる間際に別れてしまった。
別れたのは春のことだ。公園でピクニックをして、オニギリを食べて日本茶を飲んだ。
少し遊んで夕方になると「ばいばい」と言って小学生みたいに手を振って別れた。
彼女はのしのしと夕陽に向かって一人で歩いていった。
彼女はいつも明るく笑っていた。
でもその時になって、僕は何一つとして、彼女の本当のことを理解していなかったのかもしれないと思った。彼女も隠していたんじゃないかと。
僕はひょっとすると彼女が見せない弱さや孤独に惹かれていたのかもしれない……。
ただ、そこまでは綿矢先輩に話さなかった。笑い話は笑い話のままに、僕の呑気な過去として終わらせればいい。
僕の話が可笑しかったのか、先輩は柔らかい表情で笑っていた。
それは先輩がこれまで見せてこなかった、僕が見つけられなかった表情に見えた。
それくらい自然だった。
「ちなみに先輩は……中学か高校の時は誰かと付き合ってたんですか?」
だけどその自然で柔らかな表情も、僕が質問するとなくなってしまう。
「少なくとも、中学の時にはそういうことはなかったかな」
「それじゃあ高校の時ですか?」
少しだけ悲しそうに先輩が笑う。
「どうだろね」
「気になります」
「まぁでも、キスくらいはしちゃってるから」
「それは……大恋愛した相手とですか」
「覚えてたんだ」
「当たり前ですよ。ずっと、気になってたので」
先輩が僕を見て再び微笑んだが、何も答えてはくれなかった。「それじゃ、今日はこれくらいで」と言って席を立ち、背中を向けて去っていった。
そこには見慣れた後ろ姿があった。人生を一人で歩き続けてきた人の背中だった。