今夜、世界からこの涙が消えても

6

そろそろデートに誘いたい。綿矢先輩と付き合い始めて二週間が経とうとしていた。
その間にしたことといえばメッセージのやり取りといつも通りの挨拶、そこからの会話と、講義後の図書館で何度か話した程度だ。
充分といえば充分なんだろう。これ以上望むべくもないのかもしれない。
だけど僕は綿矢先輩と遊びに出かけてみたかった。そこで見たものや感じたことについて話し合いたい。色んな景色を先輩と見てみたい。
思えば、付き合いたいとはそういう感情を指すのかもしれない。
この人と色んなことを経験してみたいと。
「あの、デートしませんか?」
だから思い切ってその日、綿矢先輩を見つけてそう言ってみた。先輩は今日は事務棟近くの目立たないベンチに座っていた。
「え、デート?」
挨拶も抜きにいきなり提案したので先輩はわずかに困惑していた。
「は、はい」
「誰と?」
「先輩と」
「誰が?」
「僕が」
「何を?」
「デートです」
「誰と?」
「先輩と」
「誰が?」
「僕が」
それから三巡くらい同じやり取りをした。いくら僕でも途中でからかわれているんだと気付いたものの、先に音を上げたのは先輩の方だった。
「愚直だね、君は。ま、いいけどさ」
先輩がそう言って微笑み、恥ずかしくなって僕も笑う。
「あの、それで来週の土日のどっちか、どうです?」
それでも予定を取り付けるために尋ねると、先輩が申し訳なさそうな表情になる。
「ごめん。土日は毎週用事があるんだ。だから……ちょっと無理かな」
心がざわめいてしまった。その用事とはなんだろう。僕との付き合いを恋愛ごっこに留めていることと関係があるのだろうか。
「そう、なんですか……。えっと、どんな用事か聞いても」
「高校時代の親友がいて、その子と会ってるんだよね。今は予備校に通ってるから、土日に勉強を教えたりもしてて……。まぁ本当は毎週ってわけじゃないけど、できる限りあけておきたくてさ」
綿矢先輩の高校時代の親友。その返答を聞いて安堵する。
地元が同じ先輩からも聞いたことがあった。綿矢先輩はその親友さんを大切にしていて、今でもよく遊んでいるという。
というか、綿矢先輩の親友さんってどんな人なんだろう。予備校生ということは分かったけど純粋に興味が湧いた。つい質問を重ねてしまう。
「ちなみにどんな人なんですか?  先輩の親友さんって」
「どんな人?  ん~~。めちゃくちゃ可愛いよ。髪が長くて女の子らしくてさ。それなのに全然気取ってないんだ。裏表もないし性格もいい。……私とは違って、誰からも愛されるっていうかさ」
先輩が少しだけ寂しそうな表情を見せる。本当は違うのかもしれないけど、少なくとも僕にはそう見えた。
「綿矢先輩だって素敵ですよ」
だからだろうか。そんな顔をしてほしくなくて僕はとっさに言っていた。
「皆、先輩のことを特別に見てますし、できるならもっと話したいって思ってるはずです。だけどその、先輩が綺麗だから……。な、なので先輩だって誰からも愛される人だと思います。えっと、それで……」
その段階になって自分がかなり恥ずかしいことを口走っているのに気付く。
先輩も驚いていた。それが次の瞬間には柔らかい表情を見せる。
「気遣ってくれなくて大丈夫だよ」
「いえ、事実ですから」
「人間はフィルターを通して世界を見てるからね。君の場合はフィルターが純粋なのかな。ちょっと盲目すぎるかもしれないけど」
確かに恋は盲目というけれど、それで目を曇らせているわけじゃないと思う。
大学の人たちが綿矢先輩を特別に見ているのは事実だったから。
容姿のことだけじゃなくて性格も含めてだ。先輩の同級生は特にそうだと思う。
一見して綿矢先輩は自由気ままに振舞っているように見せるけど、実は相手のことをいつも考えている人だった。
多分、本当は誰よりも繊細なんだ。だからこそ他人の心の機微が分かり、人と一緒にいる時はその場を楽しくしようとして、無理にでも笑っているんだと思う。
数日前、綿矢先輩と二人で話しているところに先輩の同級生が声をかけてきたことがあった。その時も綿矢先輩は楽しそうに会話し、相手のことを笑わせていた。
『先輩は誰とでも仲良くなれる人なんですね』
その人が去ったあと、僕がそう言うと先輩は自分を卑下するように笑った。
『私は人が怖いから、嫌われないように表面上だけでも仲良くしてるんだよ』
答えた直後、綿矢先輩が眉を上げて表情を変える。言うべきではなかったことを、つい漏らしてしまったというふうに見えた。『なんてね』などと言ってごまかしていた。
先輩の本音に触れ、人が誰でも持つ弱さにも触れ、僕は先輩に対して親近感を抱くようになった。ますます好きになっていた。
ただ、その想いを素直にこの場で伝えたら、先輩は条件違反で僕との付き合いをやめてしまうかもしれない。考えた末に僕は言った。
「これでも恋人なので、フィルターとか関係なく、先輩のいいところをちゃんと見てるんですよ」
恋心は口にできなくても、先輩への敬意なら口にできたから。
「いつも先輩のこと、もっと知りたいって思ってますし……。だからその、デートにも行ってみたくて……。あ、いや、勿論、親友さんの予定を優先でいいんですけど」
再び驚いたように先輩が僕を見ていた。しばらくすると苦笑するような顔つきになる。「まったく君は」と言っていた。
その先輩が空に視線を転じ、何かに迷っている仕草を見せる。仕方ないとでもいった調子で笑うとベンチから立ち上がった。
「土日は無理だけど、今日の夕方からならいいよ」
「え?  それって……」
「デートしよっか。ちょうど見たい映画があったんだよね」