逢う日、花咲く。

 いつからか、私の中に、一人の男の子がいる。
 はっきりとそう感じるようになったのは、小学校の高学年あたりからだっただろうか。一度その事をお母さんに話した事があったけど、その時はお母さんの表情から今にも病院に連れていかれそうな雰囲気を感じたので、咄嗟に冗談の方向に話を切り替えた。だから、これはみんなが持っているような普通の感覚ではないんだな、とそこで気付けたし、他の友達にも話していない。
 顔も見えないし、声も聞こえない。でも確かに、いつもではないけれど時折、心の中とか、胸の内側のような所に、私ではないその存在をふわりと感じる。それは、こうして客観的に考えてみると不気味だけれど、怖いものではない、というのは分かる。むしろ、すごく優しくて、あったかくて、私を大事にしてくれているのを感じる。でも寂しくて小さくなって震えているような――そうだ、小屋の隅で怯えているウサギみたいな、そんな感覚だった。だから私は、自分の中にその子の存在を感じる度に、「ここは大丈夫だよ、怖くないし、暖かくて楽しいよ」と伝えるように、めいっぱいその時を楽しむ事にしていた。
 私は、何とかして、私の内側にいるそのウサギみたいな不思議な男の子を元気づけてあげたくて、どうすればその子を温めてあげられるか、ふと気が付けばそればかり考えているようになっていた。

「葵花、聞いた? 来週から非常勤で来る数学の先生、めっちゃイケメンなんだって!」
 だから、高校の昼休みに友達の絵里から声をかけられた時も、私は自分の席でぼーっと考え事をしていた。
「え? ああ、そうなんだ」
 心ここにあらずな私の返答に、絵里のサイドテールの黒髪が彼女の夏服の肩に揺れる。
「もー、リアクション薄いなぁ葵花は。もっとアンテナ張って、ぐいぐい行かないと。そんなんだからいつまでも彼氏できないんだぞ」
「絵里だっていないじゃん」
 そう笑いながら答えた。確かに、演劇部の先輩達も、新しい先生がカッコよくてどうのとか言ってたような気がする。でも私は、そういうのにはあまり興味が湧かない。それよりも、ウサギさんを笑顔にする方法を考えていたい。
「ねえねえ、放課後こっそり見に行こうよ。今日職員室で挨拶とかしてるみたいだから、出てくる所を待ち伏せてさ。その先生、演劇部の顧問にもなるんでしょ?」
「うーん……」
 数学教師かつ演劇部顧問の豊橋先生は、出産と育児のためしばらくお休みになる。その間の代理として呼ばれたのが、いま女子達の間で話題のイケメン先生らしかった。
「いいなぁ、私も演劇部に転部しようかなぁ。それで練習中に後ろから手とか握られて個人的に演技指導されちゃったりしてー!」
 まだ顔も知らないのに勝手に妄想してキャーとか言っている絵里を横目に、そういう不純な理由で演劇部に入る女の子が増えたらいやだなぁ、と私は思った。

 結局その日の放課後、絵里に強引に腕を引かれ、職員室から数メートルの曲がり角に身を隠して、その話題の先生を見る事になった。私達が向かうと既に他の女子達が数人スタンバイしていて、女の子のミーハーな空気に辟易してしまう。今ウサギさんが来たら、私もそんな女の子の一人だと思われてしまうだろうか、なんて危惧も浮かぶ。
 しばらくして職員室のドアがカラカラと開き、生徒から密かに「鬼爺」と呼ばれている教頭先生と、若そうな男の先生が出てきた。途端に、隠れて覗いていた女の子達から歓声が沸き起こる。声を出したら隠れてる意味がないんじゃ、と思ったら案の定、教頭先生がこちらに気付いて怖い顔をした。
「こらァ、見せもんじゃないぞ。行った行った」
 そう言ってしっしっと手を揺らす教頭先生の後ろで、その若い先生は爽やかに微笑んで、こちらに向けて小さく手を振った。また女子達の歓声が上がる。教頭先生はため息をつくように肩を落としてから階段を下りていった。若い先生は微かに何かに驚くような表情をして、数秒だけこちらを見た後、教頭に呼ばれて階段を降りていく。
 私を、見ていた……? いや、気のせいか。
「やっばいね、めちゃくちゃカッコイイじゃん!」
 興奮気味に絵里が話す後ろで、他の子達もキャーキャー言っている。「私を見つめてたー」とか騒いでいる子もいるので、さっきのはやっぱり私の気のせいのようだ。それにしても、確かに長身で爽やかな外見で、笑った顔も優しそうでアイドルみたいな人だったけど、そんなにはしゃぐような事だろうか。
 私のノリが悪いのが気に食わないのか、絵里は露骨に眉をしかめた。
「まーた葵花は反応が薄いんだからぁ。どうせあれでしょ? お子様な葵花は、気になる男子とか、そういうのがいたこともないんでしょ?」
 さすがに馬鹿にされている事が分かってムっとした。だから、咄嗟に言ってしまった。
「いるよ、気になる人くらい!」
「えっ、本当に? 葵花とは長い付き合いだけど、初めて聞いたわそういう色っぽい話。誰、誰? どんな人なの?」
 思った以上に食いつかれてしまった。ここではぐらかせば、でまかせだとからかわれそうだ。私はもごもごと声を出す。
「それは……ずっと、私をすごく大事に思ってくれてて、でも、よく分からないんだけど、どこか寂しげで、何とかしてあげたくなるっていうか……」
 嘘は言っていない。絵里の表情が、みるみる喜びと好奇心の色に染まっていくのが見えた。私の顔は赤くなっているかもしれない。
「えぇー、何その『お互いが特別』感! 付き合ってるの?」
「いや、付き合っては、いないんだけど……」
「それもう告白待ちだよ! いいなぁ葵花は。そういう人がいるならもっと早く話してよぉ、私たち友達でしょ。で、誰なの? 学校外の人?」
「えぇーっと……」
 答えあぐねていると、心の中に小さな温かさがぽわんと灯った。
「ウサギさんが来たっ」
「え、何?」
 不意に零れた私の呟きに、絵里は怪訝な顔をした。慌ててこの話題を終わらせる。
「あ、私、部活行かないと! じゃあね絵里。絵里も吹奏楽サボっちゃダメだからね」
「あっ、はぐらかしたな!」
 頬を膨らす絵里に笑って手を振って、私は廊下を走る。窓から見える、夏の訪れを告げるような太陽が、古びた校舎や、校庭の新緑や、放課後にはしゃぐ生徒達を、眩しいくらいに輝かせている。
 ここは楽しいよ、私は幸せだよ、だから大丈夫だよ、名も知らぬウサギさん。
 絵里に話したのは嘘でもでまかせでもなかった。気が付くと私の中に浮かび、寂しさに身を縮ませながら、私を何よりも大事に思ってくれている。そんな彼が、いつからか、気になってしかたない。
 歩調を緩め、廊下の窓からキラキラと輝く外の風景を眺めながら、お気に入りの短歌を口ずさむ。
「なしなつめ、きみにあわつぎ、はうくずの、のちもあわんと、あうひはなさく」

 顔も見えなければ、声も聞こえない。
 でも確かに繋がっていて、この胸の中でくすぐったく、いじらしく、私を温めてくれる。
 どこにいるの。いつか逢えるの。君に逢いたい。いつか、逢いたい。
 それはあまりにも透明で、
 あまりにも純粋な、
          初恋、だった。