逢う日、花咲く。

 午後の数学の授業中、黒板にチョークが走る硬い音が教室に響く。僕はそれを右耳だけで聞きつつ、梅雨入りが近いことを予感させる六月の曇り空をぼんやりと眺めていた。彼女の心臓が僕にもたらしてきた映像や音を、思い返しながら。
 葵花は、中学では美術部だったが、高校では演劇部に所属していた。彼女に演劇の経験があった訳ではないが、過去にテレビのドキュメンタリーで観た、舞台の上で活き活きと動き回る役者に、輝きを感じて憧れを抱いたようだった。テレビに影響を受けやすいんだな、と、僕は微笑む。
 僕も、彼女の歴史を辿るように、高校で演劇部に入ってみようかと考えた事もあったが、その思いは一瞬で立ち消えた。彼女を通して経験していたその部活動は、「演劇」という文化的なイメージを起こす言葉とは裏腹にかなり体育会系であり、毎日の筋トレやランニングで心臓に負荷をかけることは避けたい所だ。それに、彼女が楽しそうにやっていた台本の読み合わせ等も、僕に向いているとはとても思えなかった。
「じゃあここの問題を……」
 黒板に因数分解の問題を書き終えた教師が、教室を見渡した。僕は目立たないように手元の教科書に視線を落とす。
「今日は6月3日だから、かけて18番の、ホズミ君にお願いしようかな」
 この教師は変則的な指名の仕方をしてくる。心の中でだけ舌打ちをして顔を上げると、その若い男性教師の試すような微笑みが見えた。僕の授業態度の悪さを暗に指摘しているのかもしれないが、その鼻を明かしてやろうと僕は席を立ち、淀みなく解答を板書した。
「へえ、ちゃんと授業聞いてくれてたんだね、ホズミ君。それとも、キミにはこんな問題簡単過ぎたかな?」
 皮肉かどうか分かりにくいその問いに、僕は当たり障りなく微笑んで答える。
「いえ、授業を真面目に受けているからですよ」
「そうか、ありがとう」
 その数学教師――星野先生は、眼鏡の奥の目を細めて柔らかく笑った。
 最後尾の自席に戻るために机の間を歩いていると、教室内の女子生徒の大半の視線が、教壇に立つ星野先生に向けられている事に気付いた。また、それに比例するように男子生徒の大半が不貞腐れたような表情をしていて、教室を一種異様な空気が満たしていた。
 やがて授業終了の鐘が鳴り、星野先生が教室を出て行った後、前の席に座る小河原が振り返って言った。
「いやぁ、オレ数学の時間って苦痛だわ」
 早くも頬杖を付いて心臓の記憶へ陶酔しようとしていた僕は、おざなりな声で返事をする。
「数学、苦手なの?」
「違うって。寧ろ数学は好きな方なんだけどさ、そうじゃなくて、教室の空気が息苦しいっていうか」
「そうか? じゃあ、せっかく窓際の席なんだから、少し窓を開ければいいんじゃないの」
「だからそうじゃなくてぇ、ギスギスしてるんだよな、星野先生の授業は」
「そうかな。授業の進行はうまい方だと思うけど」
 僕の応答に、小河原は呆れたように笑った。
「ホズミンはホントに周りに興味がないんだなぁ。星野先生が来ると、女子がみんな授業そっちのけでキラキラした視線送るから、男子はそれがつまらなくてイライラしてるんだよ。……本気で分かってなかった?」
「ああ、そういう事」
 それなら、僕も先ほどピリピリとした異様な雰囲気を感じた所だった。
「入学して二か月も経つとさ、クラス内で気になる女子も出来るもんだろ? でも失敗したよなぁ、この学校にあんな女子キラー教師がいるなんてさ。男共は皆ガックリしてるんじゃないかなぁ。オレの青春も危ぶまれるわ」
 確かに、近くに集まって話している女子達のキー高めの会話からも、「星野先生」という単語が頻出している。
「ふうん、人気なんだね、星野先生」
「さすがの余裕だぜ、ホズミン。頼もしいわー」
 溜息をつく小河原と一緒に、温熱と寒冷の渦巻く教室を眺めた。僕の場合は葵花の存在があるし、彼女にはそういった特定の相手はいなかったようなので、小河原が言うような感情に縛られる事はないのがありがたい。いや、それでも、まだ見ぬ彼女の記憶の中で、そういう相手が現れないとも限らない。そうなったら、僕は、どうすればいいのだろう。発狂しないで、これまで通り彼女の心臓と寄り添えるだろうか。
 小さく窓を叩く音がしたので視線をそちらに向けると、降り出した雨でガラスが濡れ、まるで涙ぐんでいるように外の景色をぼやけさせていた。