今夜、世界からこの涙が消えても

どんな願いにしろ、まずは願わないと叶わない。そんな当たり前のことを僕は知る。
幸運にもその日の夕方から綿矢先輩とデートをすることになった。
お互いの一日の講義が終わったあと、図書館前で合流して地下鉄の駅へと向かう。
緊張していたせいか、電車に揺られて目的の駅に着くまではあっという間だった。
都心のターミナル駅前には立派な高層ビルがあり、その上層階に映画館が入っていた。下層階の一部は吹き抜けで、大理石の床には上品なショップが立ち並んでいる。
「なんだか、本当にデートみたいですね」
エレベーターで映画館に向かう途中、その光景を見ながら呟くと先輩が笑った。
「いや、デートでしょ」
見る映画は決まっていた。以前に話していた西川景子さんの小説が映画化したものだ。
先輩が席を予約してくれていたおかげで、すんなり座ることができた。
平日の夕方にもかかわらず、シアター内にはたくさんの人がいる。過去に女性と付き合ったことはあったけど、こういうデートらしいデートはしたことがない。
「というか、奢ってもらっちゃってよかったんですか?」
上映を待つ間、肩が触れ合うほどの距離にいる先輩に向けて思わず僕は尋ねた。
「私が誘ったことだし気にしないで。バイトもしてるしね」
「バイト。先輩はどこでアルバイトしてるんです?」
「……母親が本の表紙とかのデザイン関係の仕事しててさ。書類仕事なんかを手伝ってるの。高校生の頃からだから結構貯えもあるよ。ま、学生程度のことだけど」
本の表紙などのデザイン関係。つまりは母親がデザイナーさんということだろうか。
先輩が家族について話すのはその時が初めてだった。いずれにせよ……。
「次のデートでは僕が奢りますから」
僕がそう言うと、先輩がじっと見つめてくる。鼻から息を抜くようにして笑うと「うん、分かった」と答えた。
しばらくして上映が始まる。本編が始まる前に小説の内容を頭の中でおさらいしようとしていたら、あとがきのことをふと思い出した。
原作のあとがきに、この小説を執筆する前に辛いことがあったと書かれていた。
しかし具体的なことは記載されておらず、気になって調べてみたがインタビューなどでもそのことは語っていないようだった。
家族に不幸があったのではないかと噂されていたものの、確かなことは分からない。
あとがきについて思いを巡らせている間に本編が始まる。
当時の作者の心を反映しているのか、話は美しくも悲しいものだった。人との別離の寂しさや苦しさ、それすらも飲み込んでいく日常の力強さと儚さが描かれていた。
映画が後半に差し掛かった頃、僕はあることに気付く。
隣を見ると先輩の目がスクリーンの光を反射して光っていた。水の膜が瞳に張られ、そこに映った光がゆらゆらと生き物みたいにたゆたっている。
先輩が泣いていた。
僕は驚きながらも、先輩の映画鑑賞の邪魔にならないよう視線を前に戻す。
ハンカチを差し出そうか迷ってポケットを意識したが、アイロンもかけていないと様にならないことを思い知らされた。今度から必ずアイロンをかけようと心に決める。
しかし……当たり前かもしれないが、先輩だって泣くことがあるんだ。
その事実に僕は感じ入っていた。それは大学では知ることができなかったことだ。
ただ、映画はまだクライマックスというわけではない。先輩は何に感動を覚えたのだろう。あるいは、何に悲しみを……。
映画を見終わる頃には、ビルの窓から夜の空が見える時間帯になっていた。地下一階にお洒落なカフェがあるという話で、先輩に誘われてお店に向かう。
少しでも長く先輩といられるのは嬉しいことでもあった。
カフェの席で向かい合って腰かけ、夕飯を食べながら映画の感想を言い合う。先輩は小説だけじゃなく映画も好きなようで、熱心に演出や物語の展開について話していた。
泣いてましたよね、先輩。
本当ならその話題に触れたかった。どのシーンに感動したのか、あるいは悲しみを覚えたのか、尋ねたかった。
だけどそれは失礼に当たるかもしれない。泣いている姿なんて人に気付かれたくないものだろう。涙を流す理由は様々で、ごく個人的なことだ。
そういったことを考えていると先輩が言う。
「映画広告の写真も綺麗だったよね。人というよりも風景が主役みたいでさ」
「確かに。あえて被写界深度を……」
反射的に知ったふうなことを口にしそうになり、慌てて浅知恵を引っ込める。
先輩は驚きながらも、どこか興味深そうに僕を見ていた。
「ひょっとして写真とか好きなの?」
「あ、いや。格好つけて、なんとなく聞いたことがある単語を口にしただけです。写真は撮るのも撮られるのも苦手なんで」
そんな話題に紛れたこともあり涙の理由は聞かずに終わる。その代わり、僕は笑顔を作って先輩に言った。
「それよりも約束、忘れないでくださいね。次のデートは僕が奢りますから」
「約束って言っても、まだどこで何をするかも決めてないけどね」
「じゃあ、どうぶつ……いや、ゆうえん……ん~~。水族館とかどうです?」
「途中変更多かったね」
「動物園って思ってる以上に動物のにおいしますし、遊園地も少し遠いですから。水族館なら平日でも大丈夫かなと思って」
ここからそう遠くない距離に水族館がある。
大学の友人が話していたことになるが、今の時期はナイト・アクアリウムという催しが行われていて、夜遅くまで水族館が開いているとのことだ。雰囲気もあって人気のデートスポットになっているらしい。
僕の提案に先輩は考え込んでいた。
「水族館……か」
「嫌いでした?」
「嫌いっていうか」
僕は恥ずかしくも先輩としてみたいことがあった。
色々と考えたけど水族館はぴったりかもしれない。先輩が嫌じゃなければ、僕は先輩と手を繋いでみたかった。できるなら恋人みたいに。
「恋愛ごっこで構わないので、その、もし宜しければ、水族館でデートしてください」
ただ、あまり図々しいのも考えものだった。思わず声が小さくなる。
そんな僕を気遣ってだろうか。先輩がまた、仕方ないとでも言うように笑う。
「……分かった。じゃあ次はそうしよっか」
「え?  いいんですか?」
「いいよ。だって私たち、一応恋人だしね」
次の約束が取り付けられたことに僕は嬉しくなる。大げさに喜ぶ僕を見て、先輩は口元を和らげていた。
それからも先輩と話をする。サブスクで見た映画のことや、気になっている小説、共通の知り合いである僕と地元が同じ先輩の話などを。
楽しい時間ほど過ぎるのが早いもので、あっという間に夜の九時になっていた。
カフェを出て先輩を駅の改札まで送る。
「それじゃね」
「はい。お気を付けて」
改札の前でそうやって挨拶し、僕は先輩を見送った。姿が見えなくなるまでその場で佇む。何気ないことではあったが、そこにはむず痒く甘酸っぱい喜びがあった。
自分が使う地下鉄の駅へと向かい、ホームで電車を待つ間にメッセージを送る。
《今日はありがとうございました。楽しかったです。次の水族館も楽しみにしてます》
すぐに綿矢先輩から既読はついた。
今日は先輩も楽しんでくれただろうか。《私も楽しかったよ》と《次も楽しみにしてる》と、そう応じてくれるだろうか。
数分が経過し電車がやって来る。乗り込む段階になっても返信はなかった。
やがて電車が大学付近の駅に到着し僕は地上に出る。すぐにスマホを確認した。
だけど……なぜだろう。先輩から返事がくることはなかった。