
後日、以前に飲み会に参加していたほかの先輩たちに思い切って聞いてみた。
昔のことは分からないけど、綿矢先輩は大学に入ってからは誰かと付き合っている様子はないということだった。
ならあの言葉が指すのは、中学か高校時代のものなんだろうか。今はその相手と別れてしまっているということなんだろうか。
あれ以来、綿矢先輩と会うのが躊躇われるようになっていた。失礼な発言をしてしまった気まずさもある。
それ以上に、ただ子犬がじゃれるように先輩を好きなだけでいいのか、疑問を覚えるようになった。それでは何も変わらないのではないのかと。
綿矢先輩と期せずして再会したのは、最後に話してから約二週間後のことだった。
六月に入り、来月の試験のために僕は図書館で勉強をしていた。疲れたので息抜きに散歩をしようと館内を歩く。純文学のコーナーには意図的に近づかなかった。
だけど僕は見つけてしまう。綿矢先輩が一人用の勉強机の椅子に腰かけていた。珍しいことに机にうつ伏せになって寝ていた。
心臓が強く脈動し、自分が先輩に心を惹かれていることがあらためて分かる。
図書館は冷房がよく効いていた。寝ていると体を冷やして風邪を引いたり、体調を崩すことがあるかもしれない。
悩んだ末、僕は先輩を起こすことにした。
「え……あれ? 君」
肩をそっと叩くと先輩が目を覚ます。
やましい気持ちはなかったが先輩は女性だった。細い肩の感触が指先に伝わる。
どんな自分で先輩と対すればいいか分からず、僕は困ったような表情を浮かべた。
「すみません。冷房が結構効いてるので、風邪を引いちゃいけないと思って」
「あぁ、そっか。ありがとね」
久しぶりに顔を合わせたこともあって、つい先輩を見つめてしまう。
僕は彼女のことがどうしようもなく好きだった。寂しそうなのに明るくて、明るいのに寂しそうで……。何が彼女をそうさせているのだろう。
知りたいから好きになるのか、好きだから知りたいのか、その順序に区別がつかない。
先輩のことを考えていると気持ちが溢れてしまいそうだった。
「えっと……。それじゃ、失礼します」
本当はもっと話したかったけど、あまりしつこいのもよくないだろう。
そう考えた僕は静かにその場を去ろうとする。
「あの、さ」
しかし声をかけられて足をとめた。
振り返ると先輩が立ち上がっていた。なぜか苦しそうに笑っていた。
「私……優しい男は好きじゃないの」
なんと答えればいいか、迷ってしまった。僕が好意を寄せていることが迷惑になっているのだろうか。自分のことは諦めるよう言われているのか。
「僕は別に、優しくなんてないから大丈夫です」
その発言に先輩は無言になる。思わず僕は質問をした。
「どうして、優しい男は嫌いなんですか」
「……むかつくから」
「え?」
「人間ってさ……本来、自分本位な生き物のはずでしょ? でも優しい男って、自分本位に生きないから」
先輩は誰のことを言っているのだろう。
先輩は今、確かにここにいる。現在に所属している。それにもかかわらず、先輩の目は、ここではないどこか別の場所を見ているように感じられた。
「自分本位に生きないから、嫌いなんですか」
「そう。自分本位に生きて、他人のことなんて考えず、ただ自分のしたいことだけをしてほしい。それで……なんなら他人にだって平気で嫌われてほしい。そうやって世に憚ってほしい」
何かそれは、先輩の切なる願いのようにも聞こえた。
言い終えた先輩が僕を見つめる。また、いつかのように悲しそうに笑った。
「君はそういうタイプじゃないよね。だからさ、私のことは……」
諦めて。
先輩は多分、そう言おうとしていた。それを遮って僕は言葉を紡ぐ。
「あなたのことが……好きです」
踏み込む余地を完全に奪われる前に、言わなくてはならないと思った。
先輩に「諦めて」と言われたら、もう、そうするしかない。
それでも僕は先輩のことを諦め切れないだろう。
だけど踏み込む余地は一切ないと理解して、世界の片隅で先輩のことを恋しく思いながら、キャンパスでその姿を知らず知らず追うしかないのだ。
そんな自分の姿が容易に想像できた。
しかし分かってもいた。告白してもどうしようもないことは。
僕では先輩に届かない。振られてしまう。その覚悟はしていた。
「付き合ってもいいけど条件がある」
だからたっぷりとした間を挟んだあと、先輩からそう言われた時には驚いてしまった。
そしてこれは勘違いかもしれないけど、先輩も口にしながら驚いていた気がした。
その先輩が言葉を続ける。
「私を本気で好きにならないこと。これが守れる?」
人の少ない図書館は静かで、空調が館内を冷やす音だけが静かに回転していた。
外界の静けさに比して身の内はやけに煩い。心臓が命を刻み続けている。
目の前には、明るくて寂しい美しい人がいた。
その人のことを僕はもっと知りたいと思っていた。なのにその人に、本気で好きにならないよう言われてしまった。
それは、どういう意味なんだろう。
僕の好意はお遊びだと思っているのだろうか。ファッションのように相手のことを好きになっていると、そう思われてしまっているのだろうか。
何よりも、その条件を受け入れなかったらどうなるのだろう。
先輩は今のことを冗談にして、明るくこの話を終わらせるのか。そうなったらもう二度と、先輩の心や過去に触れることはできなくなるのか。
逡巡はわずかな間のことだった。いずれにせよ自分が返すべき言葉は決まっていた。
僕は先輩のことが好きだった。先輩のことをもっと知りたい。
言葉は、間に合うだろうか。先輩は「冗談だよ」と今にでも言って提案を翻さないだろうか。間に合ってくれ。そう願いながら僕は答えていた。
「はい」と。