逢う日、花咲く。

 目を閉じていると、廊下や教室の喧騒の中に、彼女の心音が浮かび上がってくる。とくん。とくん。僕はそれを両手で大切に汲み上げ、そっと胸に抱きしめる。
「……で、その手術の影響で運動が出来ないって、コト?」
 音の暗闇の中に、小河原の少し遠慮を含んだ声が聞こえた。目を開けると、いつもの高校の教室を背景に、少し神妙な顔をした小河原がいた。
「いや、人並みに運動はできるよ」
「じゃあなんで全部休んでるんだよう。サボりか?」
 僕が見る夢や、彼女の事は、話していない。話した所で信じてもらえるとも思えないし、話したいとも思わない。彼女の存在は、僕の中だけの秘密にしていたい。
「だって、もったいないじゃん」
 僕の言葉に、小河原は首を傾げた。
「何が?」
「鼓動の回数が、だよ」
 生き物の心臓は、鼓動できる回数に上限がある、という話を聞いた事がある。小型犬は約五億回。猫や馬は約一〇億。人間は、約二〇億。言うなれば、心臓の使用回数限界。それだってただの統計的なネタ話みたいなもので、科学や医学的な背景は一切ないらしい。それでも、その話を聞いてから僕は恐ろしくて、彼女の心臓がもたらす鼓動の一つ一つを大切にしたくて、無駄な負担は与えないように、不要な運動は全て避けてきた。
「お、おう、そうか、そうだよな」
 僕の境遇を知ったからか、小河原は素直に僕の謎理屈を呑み込んだ。
「僕が体育サボってるってのは、みんなには内緒にしてくれよ」
 さっきの小河原のように、僕は身を乗り出して片ヒジを机につき、囁く。
「友達としてな」
 小河原は目を丸くして嬉しそうに、それでいて秘密を共有した子供のように悪戯っぽい微笑みを浮かべ、
「おう、任しとけ」
 と小声で答えた。
 休み時間の終了を告げる鐘が鳴り、教室は席に戻る生徒達でばたばたと慌ただしくなる。小河原はこちらに向けていた体を黒板の方に戻しながら、右手の親指を立てて見せた。まったく、ありがたいことだ。

 部活動に所属していない僕は、授業を終えると小河原に別れを告げてすぐに学校を出た。彼女が好きだった花々を愛しく眺めながらゆっくり歩き、帰路の途中にある小さなスーパーに寄って、食材を買う。アパートの部屋に帰り食糧を冷蔵庫に入れてから、ケータイで母親に帰宅の連絡をする。「今学校から帰りました」。仕事中だからか、帰宅連絡の返事はいつもすぐには来ない。
 彼女がくれたこの心臓のためにも、不健康な生活はしたくなかった。体育はサボっているが、適切な身体の維持のために、リハビリ時の担当医に教えてもらった軽い運動は毎日欠かさず行っていた。食事も、即席ものやコンビニ弁当などは避け、いつも自分で料理をして食べた。今日は鮭のムニエルと、ほうれん草と玉ねぎのサラダにした。風呂で体を温め血行を良くし、少し本を読んで、十分な睡眠時間を取るために遅くない時間に布団に入る。
 こういう日々を繰り返していると、彼女の心臓こそが僕の本質であり、僕の身体やそれを制御する脳は、その本質を維持するための器、或いは付属物に過ぎないのだという考えが染み付いてくる。自我を喪失しそうな危険な思想だとも思うが、しかしそれは、僕にとって救いでもあった。この心臓の為に生きる事は、彼女の存在の為に生きる事と似ていて、彼女の一部を受け継いで生かされていながら個人の生き甲斐がない僕の、唯一の生きる理由であり、喜びだった。だから、僕は、明日も生きなくてはならない。

  梨棗 黍に粟つぎ 延ふ葛の 後も逢はむと 葵花咲く

 彼女の名前が、「鈴城 葵花(すずしろ あいか)」であるという事は、夢の中で彼女が紙に筆記する文字や、彼女を呼ぶ周囲の人の声で知った。彼女の性格や存在を体現するような、涼やかで美しい音と文字だ。そして、自分の名前と同じ字を含んでいるからこそ、彼女はあの万葉の一首にこれほど惹かれたのだろう、と、僕は彼女の海に揺れながら微笑ましく思った。
「おはよー葵花。ねえねえ昨日のテレビ観た? 『生命の神秘』」
 夢の中で、ある日の朝の通学中に、友人の絵里に声をかけられた。色とりどりのアジサイが穏やかな風に揺れる、梅雨入り前の快晴の朝だった。
「おはよ。見た見た! 感動したねぇ」
 僕の胸で脈打つ心臓は、彼女の記憶の全てを辿っているわけではなく、断片的だった。だからそのテレビ番組を見ている彼女の記憶は、僕にはない。
 絵里は風に揺られた髪を耳にかけ、続けた。
「すごいよね、生命の誕生とかさ。私がいつか大人になっても、あんな辛そうな思いしてまで子供を産みたいと思えるか、不安になっちゃったよ」
「あはは、分かる。女性の宿命だよねぇ」
 僕を包む彼女が軽やかに笑うと、温かな海が心地よく揺れる。君が大人になれない事を、僕だけが知っている。
「でもそれも良かったけど、臓器移植で救われた人の話も感動したなぁ」
 彼女の言葉に、僕は息を呑んだ。
「誰かが誰かの為に、命のバトンを繋いであげる感じ。救われた人もドナーに心から感謝してて、私もちょっと泣いちゃったよ。番組終わってから、さっそくドナー登録の仮申請したんだ」
「えぇー、偉いねぇ葵花。でも死んだ後に、自分の知らない所で自分の身体を使われるって、なんか怖くない?」
「考えちゃうとちょっと怖いけどさ、でもそうやって誰かの役に立てるのって、すごく素敵だなーって思ったんだ」
 その優しさに、僕は今、生かされている。
「それに、申請はしたけどさ、もしもの時のための意思表示だからね、そう簡単に自分が死ぬとは思ってないよ。やりたいこともいっぱいあるしね!」
 彼女の身体にも、心にも、いつでも若さと希望が満ち溢れていた。でも君は、そう遠くない未来に、死んでしまうんだ。
 僕なんかではなく、君こそが、生きていればいいのに。君こそが、生きているべきなのに。
 一陣の風が彼女のスカートを揺らし、道端の落ち葉を高く吹き上げた。彼女と共に見上げる空は高く青くどこまでも澄み渡って、無限の未来を讃えているようだった。太陽の眩しさに目覚めると、そこは冷たく暗く空気の沈んだ、一人暮らしの僕の部屋だった。
「ああっ……」
 また涙が溢れ、胸が痛み、シャツの胸元を握りしめる。心臓が僕の肋骨を突き破って彼女の元に戻りたがっているんじゃないかと思った。
 落ち着いた後、ケータイのウェブブラウザを開き、彼女の名前を入れて検索してみた。初めから期待もしていなかったが、まったく関係のないサイトが結果に並ぶだけだった。
 彼女は、どうして死んだのだろう。このまま夢を見ていけば、いつかそれが分かるのだろうか。