
とうとう私の住む町も、朝のニュースで梅雨入りの範囲に含められてしまった。雨は、あまり好きじゃない。
少し憂鬱な気持ちで傘を持って家を出ると、空はどんよりと重そうな鉛色の雲を広げ、さっそくパラパラと雨粒を降らせていた。梅雨入り宣言されたからって当日から律儀に降らせるなんて、真面目な空だな、一日くらいサボって晴れてくれたっていいのに。なんて考えながら傘を開くと、左胸の奥に、愛しい温もりが灯った。思わず顔がほころぶ。
「おはよう、ウサギさん。一緒にいこっか」
通りを歩く人達の誰にも聞こえないように呟いて、少し明るくなった心で、一歩を踏み出した。
タタタタンと、傘に雨粒が当たって弾け、リズミカルな音をたてる。水たまりを踏まないように、小さくジャンプして飛び越える。
道端に咲くアジサイは満開の花を重たそうにして、雨に濡れて透き通る瑠璃色の花びらを震わせながら、ようやく訪れた雨季を全身で喜んでいるように見える。その葉っぱの一つにカタツムリが休んでいるのを見つけ、そういえば久しぶりに見たな、と何だか少し嬉しくなる。
少し歩くと、タチアオイが群生している川沿いの土手に出る。まっすぐに空に向かって直立するこの植物は、私の背よりも高いものもある。大きいものは3メートルにもなると聞いて驚いた事もあった。赤、白、ピンク、紫、様々な色の花を開き、雨に負けずにしっかりと立っている。
私の名前「葵花」の由来は、このタチアオイなのだと、以前母から聞いた。自分の力でまっすぐに立ち、足元から次々に花を開いていって、てっぺんの花が開く頃に、ちょうど梅雨が明けるのだという。そのような花が自分の名前になっていると聞いて、背筋が伸びるような誇らしい気持ちになった覚えがある。
タチアオイの坂を上ると、急に視界が開ける。土手の下には川に沿って草原が広がり、真ん中にナラの木が一本立っている。少し離れた所を流れる川は雨を味方につけて、いつもよりも雄々しく力強い。川の向こうには、いくつかの木々を挟んで、雨に煙る別の町が広がっている。そこに住む人達にも、それぞれの人生があって、それぞれの想いがあって、でも今等しく同じ雨に包まれていると思うと、少し不思議な高揚を感じる。
タタタン。タタタタン。雨が傘を叩く。好きな人と一緒に歩いているような気分に、私の胸も心地よく弾む。
後ろから足音が近付いてきた。きっと絵里だ。
「葵花おはよー」
「おはよ」
少し息を切らした絵里が、私の隣に並んだ。白地に紺色でお洒落な花の模様が入った傘を差している。
「いやぁ、来ちゃったねぇ梅雨が。じめじめしてて朝から雨で最悪だよね」
「そうかな、雨も案外悪くないよ」
「えぇ、この前言ってた事と違うじゃんー」
「あははっ」
傘をくるりと回すと、雫が円の形に広がった。絵里のスカートを少し濡らしてしまい、ちょっとやめてよと怒られたけど、それさえも楽しくて、笑いながらごめんごめんと謝る。
心にまだ灯る温かさを確認しながら、私は思う。
君は、どうかな。楽しめてるかな。
放課後の演劇部で、みんなでストレッチをしていると、練習のために借りている多目的教室の扉がノックされた。部長の田中先輩が「どうぞ」と答えると、扉が開いて顧問の豊橋先生が入ってきた。
「豊橋先生!」
部員みんなが立ち上がり、先生のもとに駆け寄る。豊橋先生は、柔らかな雰囲気を纏った優しい女の先生で、生徒達にも人気がある。妊娠の経過が良くなかったらしく、しばらくお休みしていたので、久しぶりに会った。お腹が丸くなっているけれど頬は痩せていて、疲れが浮かんでいる。体の中で命を育むという事の壮絶さが垣間見えるようだった。
先生はみんなとしばらくそれまでの事を話した後、そろそろ来たかしらと扉の方を向いた。
「もう聞いてるかもしれないけど、私がしばらくお休みさせてもらうからね、その間に数学と演劇部を見てもらう代理の先生をお願いしてるの。その人は、大学の頃は劇団に所属していたみたいだから、みんなも勉強になると思うわ。正式には来週からなんだけど、今日は引き継ぎも兼ねて、先にみんなに紹介するわね」
そうか、この前絵里と見に行ったイケメン先生が顧問に来るんだっけ。そういえば名前もまだ聞いてないな。
豊橋先生が扉に手をかけ、カラカラと開いた。その奥から、お洒落なスニーカーが見え、細身のグレースーツが見え、爽やかな微笑みが見え――
今日は朝からずっと一緒だった左胸の温もりが、ぴくんと跳ねた気がした。
(星野先生っ?)
突然頭にそんな声が響き――
「え、ホシノセンセイ……?」
思わずその声に反応した私に、部員達が振り向いた。