▽チャプター2 軍人系書生との邂逅


「つまり、ここは元々実際に妖怪が出ない世界だったのに、最近になって出没が増えたと……?」

「その通りだ。《先生》より命じられたのは事態の調査だけだが、実害を為す妖怪を放置しておくわけにもいかず、かといって根本的な対策も見当がつかず、困り果てていたところだった」

 比々退治から少し後、「煉瓦(れんが)亭」なる洋食店の個室にて。阿頼耶の訝しげな問いかけに、三人をこの店へと案内した射理也は――「ここは私の師が使っている店であるから、人に聞かれる心配もない」とのことだった――静かにうなずき、テーブルの上の新聞を阿頼耶達に押しやった。

 紙面には、妖怪と思しきものの目撃や出現が増えていることが綴られている……のだろう、多分、と詠見は思った。旧字体には不慣れなのである。だが阿頼耶は全く苦にならないようで、珈琲カップを片手に、こともなげに言った。

「なるほど。先ほどの比々だけでなく、天井下(てんじょうくだり)や蛇骨婆(じゃこつばば)、朧車(おぼろぐるま)なども出ているのだな」

「絶対城君、よくすらすら読めるわね……」

「この程度は常識だ」

「言っとくけど俺も読めるからな?」

「はいはい、五行君も賢い賢い。それでええと石神君」

「……お、俺のことでしたら、射理也で結構です」

 詠見の問いかけに射理也がスッと目を逸らす。助けてもらっておいて言うのも何だが、この射理也というハーフの若者はどうも自分を敬遠している気がする。何もしてないと思うんだけど、と胸中でつぶやきつつ詠見は紙面を再度眺めた。厳めしい文字は読み取りづらいが、「大正六年」という表記くらいはすぐ読める。とんでもなく昔に来ていることを詠見は改めて実感した。

「西暦で言うと一九一七年か……。第一次世界大戦の時期に来ちゃってるのよね」

「――『第一次』? まるで二回目があるかのような言い方を」

「え? いや何でもない何でもない! 気にしないでいいからね射理也君!」

 怪訝な顔をした射理也に、詠見は慌てて首を横に振った。何でもないからねと念を押し、隣の席の阿頼耶に小声で話しかける。

「……これ、しばらくしたら関東大震災があるけど気を付けろとか言わない方がいいのよね、絶対城君」

「俺に聞かれても困るが、やめておいたほうがいいだろうな。歴史を変えかねない」

 ぼそぼそと小声を交わす詠見と阿頼耶。と、射理也は春明を一瞥し、それにしても、と言いたげに肩をすくめた。

「俺と同じ髪の色とは珍しいとは思いましたが、まさか未来から来られていたとは……。皆様を一見した時点でおかしいとは思ったのです。外出する際に帽子を被らないなど、まずありえない」

「え。じろじろ見られてた理由ってまさかそれ?」

「ああ、そういやこの時代にはそんなマナーがあったっけな。忘れてた」

「思い出すのが遅いぞ陰陽師」

「うるせえぞ妖怪学。文句言いたいならちょっとは役に立ってから言え」

 阿頼耶のコメントに春明が悪態で切り返す。また始まったと詠見は呆れたが、射理也は「妖怪学?」と眉をひそめ、切れ長の目を阿頼耶に向けた。

「絶対城阿頼耶と言ったか。君は妖怪学を修めているのか……? それは即ち、かの井上円了(いのうええんりょう)博士が創設した、妖怪の正体を暴く学問のことだろうか?」

「俺の修めた妖怪学は、原型からかなり変質してはいるが、妖怪の正体を探るという点ではその通りだ。しかし、なぜそんな難しい顔を?」

「……すまない。俺とて、円了博士の功績を否定するつもりはないのだ。だが、俺の師事する《先生》が妖怪調査を急務と考えられたのも、元はと言えば、円了博士が妖怪を非科学的な迷信と断じ、その存在を否定したため。その考え方が全国的に広まることで、妖怪伝承の衰退は加速した。《先生》はその現状を憂い、俺達を――」

「――待て、石神射理也。先ほどから気になっていたのだが……もしや……お前君の言う先生とは、貴族院書記官長の……?」

「何? なぜ分かった? 名前を出されるのは控えておられるが」

「そうか……そうなのか!」

「え。急にどうしたの絶対城君?」

「これで興奮せずにいられるものか! この男の言う《先生》とは即ち、日本民俗学の父だぞ! そしてこの石神は、妖怪の聞き取り調査に赴く調査員……。会えたことを光栄に思う」

「そんなに感銘を受けるようなことなのか? 調査先の住民達もそれに仲間も、調査の重要性をなかなか理解してくれないのに……」

「安心しろ。君達の仕事は将来、確実に実を結び――」

「おーい、盛り上がってるところ悪いけど、ちょっといいか?」

 感極まって立ち上がろうとした阿頼耶だったが、そこに春明の声が被さった。ただ一人珈琲に口を付けていなかった春明は、黒い液体に茶色い剛毛を浮かべ、テーブルの真ん中へと差し出した。これは、と首を傾げる射理也、顔を見合わせる阿頼耶と詠見を見回し、ガラの悪い公認陰陽師は自慢げに微笑した。

「この世界は陰陽術が使えないんじゃなくて、ただ効果が薄まってるだけみたいだな」

「それはそうだろう。でないと、術で呼ばれたお前が存在を保てるわけがない」

「ほんとムカつく野郎だなお前は――ってお前、もしかして俺の正体に」

「そんなものとっくに見当がついているし、明かすつもりも追及するつもりもない。いいから結論を言え」

「ったく……。あのな、石神が倒した比々の毛を使って、その出所を占ってみたら、一応答が出たんだ」

「ほんと? じゃあ」

「ああ。おそらくそこに枕返しも――つまり、この一件の元凶もいるはずだ」