▽チャプター7 エピローグ


「グワーッ!」

 枕返しの負け惜しみが絶叫へと切り替わった。

 春明が懐から取り出した霊符の束をまとめて投げつけたのである。焼け焦げて落下する枕返しに、春明の勝ち誇った声が投げかけられる。

「一枚で鬼神を楽々滅せる威力の札だ。いくら術の効き目が弱くても、二桁分一気に使えばそれなりに効くだろ……って、聞こえてねえか。ともかくこれは返してもらうぞ……と。おい作家先生に編集者! 原稿だぞ!」

「あ、ありがとう五行君! やった、やりましたよ六道先生! これでやっと――先生? 何ですその顔」

「滝川さんがそこまで喜ばれてるところを拝見するのは初めてなので。可愛いですね」

「え? す、すみません、つい嬉しくなってしまって……。でも、これで後は帰るだけですね」

「そうはいくかな?」

 詠見の素直な言葉に、ざらついた声が割り込んだ。既に薄くなって消えかかっていた枕返しである。一同が見つめる中、横たわった枕返しは満足げに笑い、続けた。

「お前達は、わしが世界と時間との間に刻んだ航跡を追ってここまできたのだろう? だがその航跡は、わしが消滅すると同時に消える! わしが歴史を改変しようとしたこと、それ自体がなかったことになるのだ……。これが世界の理(ことわり)よ。そして、時空を渡るための道しるべ――役小角の天球儀は既に破壊しておいた! つまり、貴様らにはもう、帰るすべはない……! 残念であったな!」

「てめえ、そういうことは先に言え!」

「悔しがるがいい! これが歴史の陰に追いやられ、忘れられ、消された者の恨みよ……!」

 尖った歯を剥き出しにして吠える春明を、枕返しが不敵に見上げる。春明は思わず枕返しの首を掴もうとしたが、そこに琮馬が割り込んだ。そっと春明を制した妖怪作家は、膝を折って屈み、枕返しに顔を近づけた。

「忘れられた者の恨み……ですか。僕にもその気持ちは少しわかります」

「何?」

「僕はあなたほど古くはないですが、これでも妖怪ですからね。……でも、安心してください。妖怪は完全に忘れられることはありません。確かに、古来の妖怪の居場所は、現実世界にはなくなっているかもしれない。でも、僕の携わる仕事では――物語の中では、妖怪はまだまだ元気です。『お化けは死なない』、ですよ」

「お化けは……死なない……?」

「そうです。それに新しい怪異も常に生まれ続けている。だから、安心して逝ってください。あなたのことも、僕が必ず書き残しますから。物語としてね」

「本当……か?」

 懇願の籠もった声を、ほとんど消えかかった枕返しが発する。琮馬は一度詠見へと視線をやり、担当編集者が親指を立ててうなずくのを確認した後、こくりと深く首肯した。

「任せてください。作家の口約束は基本的に信用に値しませんが、編集さんに企画が通った時の小説家は比較的信じられる相手です」

 穏やかで温和な笑みを浮かべる琮馬。それを見た枕返しは、思わず破顔し――そして、霧消した。

 瞬間、琮馬が大きく口を開き、枕返しであった気体を一息で吸い込む。ごくりと喉を鳴らして飲み込んだ後、琮馬は悼むように目を伏せ、立ち上がった。

「お待たせしました。勝手なことをしてすみません、五行さん、火乃宮さん」

「それは別に構わねえけど……」

「ええ。危険な妖怪だって市民です。その意志は出来得る限り尊重されるべきですから、六道先生の行いは素晴らしかったと思いますが……」

「……どうやって帰るか、だよね」

「えへへへ。とりあえず詠見さんはあたしの家に来ません? あたし有能そうで気の強い年上のお姉さんに目がなくて」

「やめろ淡游! 申し訳ありません、こちらの馬鹿が余計なことを」

「すみません詠見さん、この人こういう人で……」

「先輩、何かアイデアないですか?」

「タイムトラベルの実用化など、できるとしても遥か未来の話だろうしな……。そうだ。陰陽師、お前は、理論上は不老不死だな?」

「そうだけど何だよ」

「なら解決だ。お前、これからずっと誰ともかかわることなく、一人で未来永劫まで過ごせ。そして未来のどこかの時点で時間移動の技術が確立されたら、大正六年のこの日この場所に俺達を迎えに来ればいい」

「なるほど!」

「やだよ! 火乃宮も納得するんじゃねえ! なんでそんな独房みたいな人生を送らなきゃいけねえんだ」

「まあまあ」

 と、春明が阿頼耶に食って掛かり、それを琮馬が制した、その時だった。

 ふいに何もない中空に四角い穴が開いたかと思うと、その中から、地味な風体の男が姿を現した。身長百七十センチ弱、外見年齢は二十代の後半。それなりに引き締まっている体に地味なジャケットにジーンズという風体で、短い髪にお人好しそうな顔、それに似合わない無精髭。いきなり現れたその男は、その場の全員を見回した後、「あー」と頭に手を当てた。

「俺、枕返しを追ってきたんですけど……この雰囲気、もしかして、もう全部終わっちゃいました?」

「……お前は?」

「画廊勤めの絵の修復屋、裏では妖怪対処請負屋……ってな感じですかね。枕返しはそもそも、俺のいた世界から逃げた妖怪なんです。よそに迷惑かけるわけにもいかないから、頑張って追ってきたわけですが」

「追ってきた? ってことはお前……自力で世界間移動や時間移動ができるのか?」

「ええ。俺の力じゃなくて、『寒戸(さむと)』って妖怪の力を借りてるんですけどね。枕返しが逃げ回ったおかげで世界線が混濁してややこしいことになったとかなんとか、経島(ふみしま)先輩が――ああ、俺のところの知恵袋みたいな人が言ってたんですが、まあ、世界線を直すのは慣れてますので任せてください。何せ、本業は絵の修復ですから。皆さんもちゃんと元居たところにお送りしますよ。記憶はなくなっちゃうかもだけど……そこはまあ、許してくださいね」

「え。帰れるの?」

「もちろん。一旦、俺の世界の俺の時代に寄ってもらうことになりますけど」

「それは全然構いません! ですよね先輩! この人信じられそうですし!」

「お前は本当にすぐ他人を信じるな……。まあ俺も同意だが……枕返しがそこから逃げたと言ったな。つまり、そちらの世界には妖怪が……?」

「はい、割とぞろぞろいます。何を隠そう、俺の妻も妖怪でして。化けイタチなんです。向こうに着いたら紹介しますね。……大丈夫、警戒しなくていいですよ。皆さんとは出会ったばかりですけど、絵描きの勘で分かります」

「何がだ」

「きっと皆さんとは気が合います」